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वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
「すべてのものは無常です。精進し成就させてください。」

ダンマは実践すべきもの

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

(以下は、1998年4月号のヴィパッサナー・パトリカに最初に掲載された記事の翻訳です。Zee TVで放送された一連の44回にわたる公開講演の第1回からの引用です。)


ダンマを大切にする皆さま


 さて、ダンマとは何かを理解しましょう。ダンマの純粋な本質とは何か。ダンマの普遍的な本質とは何か。ダンマの真髄とは何か。ダンマの本質を理解しなければ、どうして正しく実践できるのでしょうか。実践しなければ、ダンマから恩恵を得ることができません。ダンマの実践がなければ、知的な議論、討論、論争の対象にしか過ぎません。せいぜい知的な娯楽になるだけです。ダンマの恩恵を受けることができません。

 ダンマは実践されてこそダンマです。では、何を実践するべきでしょうか。そのためにまず、ダンマが何であるかを明確に理解する必要があります。ダンマの一義的な意味は、純粋な心を育むことです。汚れた心を増していくことはダンマに反すること(アンチダンマ)です。ダンマが存在するところには幸福、平和、満足があります。ダンマが存在しないところには、ただ悲しみ、動揺、不安があります。


 心が純粋になると、その純粋な心の行動は善良で徳のあるものとなります。それは自分自身と他者にもたらす恩恵です。これをシーラ(道徳律)と呼びます。それは自分自身にも他者にも幸福をもたらします。良い運命、平和、調和を自分自身にも、他者にももたらします。もし私たちが純粋なダンマを実践するなら、幸福だけでなく良い運命になっていきます。もしそうではなく、心が汚れるならば、煩悩に襲われます。渇望と執着、嫌悪と憎しみ、怒りと嫉妬、欲望と傲慢が心に生じます。そして心は非常に不純になります。


 不純な心の行動は、その不健全な行動となり不幸しかもたらしません。それは自分自身と他者に悲しみをもたらす原因です。私たちは苦しむだけでなく、その苦しみを他者にも分け与えます。汚れた心の行動は、ただ苦しみ、悲しみ、そして苦痛を生み出します。
このシンプルなダンマの意味を忘れて、人々は儀式を行うことがダンマだと誤って考えます。彼らは断食をダンマと考えたり、祭りをダンマと考えたり、儀式をダンマと考えたり、特定の服装や社会的習慣、哲学的信念をダンマと考えます。ダンマの本当の意味は全く理解されていません。そして、その意味を理解しなければ、ダンマを生活に取り入れることはできません。もしダンマが私たちの生活に取り入れられず、私たちの行動に反映されなければ、私たちはダンマの名のもとに自分自身を欺いているに過ぎません。

                        

 ダンマが私たちの生活に取り入れられ、行動に反映されて初めて、その恩恵を得ることができます。そうでなければ、ダンマが書籍や宗教経典、そしてこのような講演の中だけに留まり、実生活に適用されず、行動に反映されないならば、それは大きな不幸です。ダンマを実践すれば、私たちの生活には平和と調和がもたらされます。しかし、ダンマを実践せず、ただ議論の対象にするだけでは、どうして平和や調和を得ることができるでしょうか。


 インドの偉大な聖者が言いました。

 「カタイ、バダイ、スナイ サバ コイ;カタイ、バダイ、スナイ サブ コイ。」(Kathai, badai, suṇai saba koī; kathai, badai, suṇai sab koī)

「Kathai」とは、人々が非常に多く話すことを意味します。ダンマについて非常に多く話します。「Badai」とは、話すことに中毒になっている人々を指します。そして「suṇai」とは、聞くことに中毒になっている人々を意味します。人々はダンマの話を聞き続けます。しかし、ただ話すだけ、ただ聞くだけでは何の助けにもなりません。

 話すこと、または聞くことによって、インスピレーションが湧き上がることが大切です。話すこと、または聞くことによって、指針を得て、そしてダンマの道を歩み始めるのです。一歩一歩、歩み始めることで、ダンマを実践していることになります。ダンマを実践せず、ただ話すだけ、議論するだけで他人に説明し続けるだけでは、何を得ることができるでしょうか。そのため、聖者はさらにこう言いました。


 「カタイ ナ ホイ、バダイ ナ ホイ、スナイ ナ ホイ、キイェ ホイ、オ キイェ ホイ」"Kathai na hoī, badai na hoī, suṇai na hoī, Kīyai hoī, o kīyai hoī."

「カタイ ナ ホイ」(Kathai na hoī)話すだけでは助けになりません。「バダイ ナ ホイ」(Badai na hoī)話すだけでは助けになりません。「スナイ ナ ホイ」(Suṇai na hoī)聞くだけでも助けになりません。では、解決策は何でしょうか。その人(he)は言います。「キイェ ホイ、オ キイェ ホイ」(Kīye hoī, O kīye hoī)実践することによって初めて恩恵を得ることができるのです。もしダンマを実践せず、ただ議論するだけなら、それは大きな不幸です。


 例を挙げましょう。冬の季節に、ある男が寒さで震えています。彼のコートは、とても素晴らしいコートで、洋服掛けに掛かっており、彼はそれについて話しています。「これは私のコートで、上質なウールで作られていて、とても暖かいコートです!」彼はコートを着る代わりに、そのコートについて話し続け、寒さで震え続けています。同様に、苦しんでいる人が、その苦しみを終わらせる手段について話すだけで、実際にそれを使わないなら、これほどの不幸があるでしょうか。


 別の例です。喉がカラカラに渇いてる人がいます。とても辛い思いをしています。近くに水があったので、その水を称賛し、「おお、池よ、あなたはこんなに良い水を与えてくれた」とお礼言いました。しかし、彼女は飲みません。一滴の水さえも口にしないのです。これ以上の不幸があるでしょうか。


 同様に、ある人が空腹で苦しんでいます。目の前には一皿の食べ物が置かれています。そしてその食べ物を称賛し、「なんて美味しそうな食べ物だ、なんて美味しい食べ物だ!」と言い、その美味しい食べ物を作った料理人にもお礼を言います。しかし、彼は一口の食べ物さえも口に入れません。彼は空腹で苦しみ続けます。これ以上の不幸があるでしょうか。

 同じように、病人は病気のために落ち着きがなく、動揺して辛い思いをしています。その人は近くに置かれた薬を称賛して褒めたたえます。その薬を処方した医者を敬います。しかし、彼はその薬を飲みません。これ以上の不幸があるでしょうか!


 同じように、人々はダンマをただの会話のテーマや知的なゲームにしてしまい、時には激しい議論や暴力的な論争に発展させます。そして、口論者たちは「私の宗教が正しい、お前の宗教は間違っている。私の宗教は素晴らしい、お前の宗教は価値がない」と叫び始めます。彼らは喧嘩し、殺し、放火し、至る所で混乱を引き起こします。このような行動は、彼らがダンマを理解していないことを証明しています。ダンマはすべての宗教のエッセンスです。彼らは内なる現実を観察したことがありません。心は清らかになったのでしょうか?心の汚れは取り除かれたのでしょうか?


 心が清らかになれば、ダンマは自動的にその人の行動に反映されます。その時初めて、それをダンマと呼びます。心が清らかでないとき、怒り、反発、憎しみで満たされています。誰かと争うとき、その人はただ反発、怒り、憎しみを生み出します。どんな宗教を持っていても、その宗教に執着を抱くだけです。ダンマの名の下に何が起きているのでしょうか。なぜこうなるのでしょうか?その答えは、私たちがダンマを実践することを忘れ、ダンマの真の意味を忘れたからです。

ダンマは常に普遍的であり、全ての人に関わるものです。それは無限で計り知れないものです。ダンマが特定の宗派やグループに限定されるとき、それは真のダンマではありません。ダンマは普遍的であるときのみ、ダンマと言えます。正しく実践する人には誰にでも同じように恩恵があります。宗教、国籍、言語、肌の色に関係なく、実践する人は誰でも恩恵を得ます。自分をヒンドゥー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、シーク教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒と呼ぶかどうかは関係ありません。ダンマの実践による実際の恩恵は同じです。ダンマを実践することは心を清めることであり、その行動は清らかな心から生まれるものでなければなりません。

 心が清らかになると、不道徳な行動を取ることができず、誰にも害を与えることはありません。自分自身にも他人にも悲しみをもたらすことはありません。清らかな心は平和と満足感で満たされ、他人にも平和と満足感をもたらします。清らかな心の性質は普遍的です。それはすべての国、すべての地域に当てはまります。世界のどの地域にいる人も、心を清めることで自然とダンマがその人の生活に現れます。その人の生活は変わり、平和と満足感で満たされます。


 ダンマは永続的で、永遠です。ダンマは永遠であるからこそダンマなのです。過去、現在、未来のどの時代においても、誰かが心を清めて、清らかな心で行動すれば、その人は自分に幸福をもたらし、他人にも幸福をもたらします。そのような人は、どこの場所にいても、どの時代にいても、清らかな心を持つ人の行動はダンマに従ったものになります。そうでなければ、それはダンマの名を借りた幻想に過ぎません。

 儀式は社会やコミュニティ、集団によって異なることがあります。宗教によっても異なる儀式があります。衣服も異なれば、宗教行事や祭り、風習、理念も異なるでしょう。しかし、これらの違いはダンマとは無関係です。ダンマは普遍的なものです。


 ヒンドゥー教徒の心の純粋さ、仏教徒やジャイナ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の心の純粋さといったものを区別することはできるでしょうか?純粋さは純粋さであり、どのラベルを貼っても変わりません。そして、その純粋さから生まれる平和と幸せもまた普遍的なものです。どのようなラベルを貼ることができるでしょうか?その人が経験している平和と幸せをヒンドゥー教の平和と幸福、イスラム教の幸福、仏教の幸福、ジャイナ教の幸福と呼ぶことはできません。

 悪もまた普遍的です。心を汚染し、嫌悪、憎しみ、欺瞞、嫉妬、羨望、高慢などの不純なもので満たすならば、人は必ず不幸になります。自分をヒンドゥー教徒、イスラム教徒、仏教徒、キリスト教徒、シーク教徒、ユダヤ教徒、またはゾロアスター教徒と呼ぶかどうかに関わらず、不幸になるのです。自分をインド人、パキスタン人、ビルマ人、スリランカ人、アメリカ人、ロシア人、日本人、中国人と呼ぶかどうかに関わらず、不純なものを生じさせるならば、不幸になります。自分の中に怒りを生じさせながら、同時に平和と調和を感じることはできません。


 このように心は浄化されて純粋になった途端に、愛や慈悲、メッターのような善良な心で満たされます。心が愛や慈悲、メッターで満たされると、苦しみが生じることは不可能です。心が純粋になり、慈愛に満たされたら、平和と幸せに満たされます。このような善良な心は、心が浄化されたときにのみ生じます。

 外見は何の違いも生みません。長い髷(まげ)を結っていても、心に怒りや嫌悪を抱えている人は、長いひげを生やしている人や、長い髪の人、あるいは禿頭の人であっても同様に、誰でも不幸になることがあります。

 このような外見的なことが何か違いを生むでしょうか。大切なのは『私たちはダンマを実践しているかどうか』ということです。もしダンマを実践しているならば、不幸から解放されます。しかし、黄色い服を着ていようと、赤い服を着ていようと、黒い服を着ていようと、白い服を着ていようと、たとえすべての服を脱ぎ去っていようとも、心に汚れを抱えていれば、必ず不幸になります。不幸に色や外見は関係ありません。心に怒りや嫌悪を生じさせ、ダンマに背く行動を取ると、その瞬間に自然の法則によって、心はすぐに不幸と動揺に満たされます。


 どのような宗教行事を行うか、どのような祭りを祝うか、またはどのような理念を信じるかにかかわらず、それは何の違いもありません。ダンマはとてもシンプルです。私たちが心を汚した瞬間、ダンマから離れ、その結果、すぐに罰を受け、苦しみを味わうことになります。そして、心の汚れを取り除いて心を浄化した瞬間、私たちは報いを受け、真の平和と幸福を即座に体験します。ですから、ダンマを実践しましょう!


 誰でも純粋になり、ブッダとなり、アラハン(阿羅漢)となり、渇望(タンハー、Tanhā)、嫌悪(ドーサ、Dosa)、無知(アヴィッジャー、Avijjā)から完全に解放されると、人は無限の慈悲に満たされます。大いなる慈悲をもって、その人は純粋なダンマを示します。そして、ダンマを示すだけでなく、それをどのように実践するかも教えてくれます。心を浄化すべきだと説く人は多くいるかもしれませんが、どうやって心を浄化すればよいのでしょうか?心が条件づけられるその根底で、心の汚れた性質をどのように変えればよいのでしょうか?心の奥深くにある否定的な要素をどのように取り除けばよいのでしょうか?そのための技術が存在します。そして、私たちはその技術を学ばなければなりません。

 悟りを開かれた方、ブッダ(釈迦牟尼仏)は、ヴィパッサナーという心を浄化する素晴らしい技法を発見されました。ヴィパッサナーを実践することで、心の奥深くにある煩悩を根絶することができます。しかし、この科学的かつ普遍的な技法は、単に話したり賞賛したりするだけではなく、正しく真剣に実践されなければなりません。


 身体を強く健康に保ち、病気から解放されたいと思うなら、何らかの運動をしなければなりません。正しく運動する方法を学ぶためには、ジムに通う必要があります。識字率を向上させるためには、学校に通わなければなりません。医学を学ぶためには、医科大学に行かなければなりません。どんな学問を学ぶにも、それを学ぶための学校に行く必要があります。

 

 心を清める技法を学ぶには、ヴィパッサナー瞑想センターに行き、ダンマを実践し、その理論と実践の両方に精通した者から学ぶ必要があります。これは、仏陀の教えのエッセンスであるヴィパッサナー瞑想の学び方です。すべての人がこのような努力をし、正しい方法で自らを鍛えるべきです。このように行う者は、明らかにダンマを実践しています。この実践によって煩悩が次第に取り除かれると、私たちはますますダンマに定着し、より多くの幸福と平和を得るようになります。ダンマを学び、実際にダンマを実践する者は、真の平和と幸福を体験し、すべての苦しみから解放されます。

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