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वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべてのものは無常です 精進し成就させてください

S.N.ゴエンカ氏について

S. N. ゴエンカの生涯

​幼少期
 

 ゴエンカ氏のメッセージを世に広める旅は、1924年、ミャンマーの旧王都マンダレーにて始まりました。それから遡ること50年足らずの頃、この地にはまだ国王が君臨していましたが、南部はすでにイギリスに制圧されていました。その後、イギリスの支配のもとで、インドから多くの移民がミャンマーへと流入しました。多くの移民たちと同様に、彼も新天地での成功を求めてやって来ました。彼は非常に誠実で正直な人物であり、精神的に強い人でもありました。ヒンドゥー教徒でありながらも、すぐにミャンマーの人々とその伝統に対して深い敬意を抱くようになりました。

その敬意は、孫であるゴエンカ氏にも受け継がれました。ゴエンカ氏は幼いころの記憶として、祖父に連れられてマンダレー郊外の有名なマハー・ミャット・ムニ大パゴダを訪れたときのことを語っています。祖父はそこで目を閉じ、静かに黙想にふけっており、少年だったゴエンカ氏はそのそばでじっと静かに待ちながら、そこに満ちていた平和な雰囲気を全身で感じ取っていました。そのとき芽生えた敬意は、やがて故郷への深い愛情へと変わっていきました。そしてその愛情は、彼の長い人生を通して決して揺らぐことはありませんでした。

やがて少年は成長し、学業で優秀な成績を収めて、クラスの首席で高校を卒業しました。さらに学問を続けたいという思いはありましたが、家族の期待に応えて、家業である繊維業に従事する道を選びました。

しかし、その後に第二次世界大戦という大きな激動が訪れます。1942年、日本軍がミャンマーに侵攻すると、ゴエンカ氏は家族の多くを率いて、山岳や密林を越えて徒歩でインドへ避難しました。その道のりは非常に過酷で、多くの命が失われましたが、彼らは幸運にも無事にたどり着くことができました。

一家は戦時中、南インドで生活を送りました。友人の助けもあり、そこで新たな生活を築くことができたのです。やがて日本軍が敗退し、ミャンマーから撤退した後、家族は再びミャンマーへと帰国しました。そのとき、ゴエンカ氏はすでに二十代になっていました。

彼はすぐにその卓越した商才を発揮し、インド系社会の中でも指導的な立場を築いていきました。しかし、本人がたびたび語っているように、富や地位を手に入れても心の安らぎは得られませんでした。代わりに、強い精神的な緊張から、彼は慢性的な激しい偏頭痛に苦しむようになりました。その痛みは、強力かつ依存性の高いモルヒネを使ってしか和らげることができなかったのです。

ゴエンカ氏は、治癒を求めて日本、ヨーロッパ、アメリカの医師たちを訪ね歩きましたが、誰ひとりとしてその苦しみを根本から癒すことはできませんでした。

 

ヴィパッサナーとの出会い
 

 あるとき、友人がゴエンカ氏に、ヤンゴン北部にある「インターナショナル・メディテーション・センター」を訪れてみてはどうかと提案しました。このセンターは、数年前にサヤジ・ウ・バ・キン氏によって設立されたものでした。

ウ・バ・キン氏は貧しい家庭に生まれながらも、誠実で有能な行政官として評価され、ミャンマー政府の高官にまで昇進しました。一方で、在家のヴィパッサナー指導者としても活動しており、ミャンマーのビック(比丘)たちによって古来から連綿と伝承されてきた自己観察の技法を教えていました。

 ゴエンカ氏はその友人の助言を受け入れ、センターを訪ねて、そこで教えられていることについて学ぶことにしました。ゴエンカ氏が訪れた際、ウ・バ・キン氏はすぐに、彼が自身の使命、すなわちヴィパッサナーを伝える役割の重要な担い手となる人物であることを直感的に見抜いたといわれています。

 それにもかかわらず、当初サヤジはゴエンカ氏の10日間コースへの参加を断りました。なぜなら、ゴエンカ氏は率直に「偏頭痛を治したくて来た」と述べたからです。ウ・バ・キン氏はこう答えました。

「ただ身体の病を治すために来るのであれば、この技法の価値を損なうことになります。」

 

「心の緊張や苦しみを軽減するために来てください。身体的な効果は、その結果として自然に現れるのです。」

 ゴエンカ氏はその言葉に納得し、数か月間の迷いの後、1955年に初めての10日間コースに参加しました。2日目には逃げ出したくなったとも言いますが、思いとどまり、想像を超える恩恵を得ることができました。

 それ以来、彼は生涯にわたり、毎朝の詠唱の中で、サヤジ・ウ・バ・キン氏への深い感謝の気持ちを表し続けました。

 その後の数年間、ゴエンカ氏は定期的にインターナショナル・メディテーション・センターに通い、家族や友人たちを多く連れてくるようになりました。瞑想の実践に取り組む一方で、彼は引き続きビジネスにも力を注いでいました。しかし、1963年、転機が訪れます。新たに権力を握った軍事政権が国有化政策を開始したのです。一夜にして、ゴエンカ氏が築いた産業のほとんどが失われ、財産も大きく減少しました。その上、彼の名前は「処刑対象の資本家リスト」にも載せられてしまいました。

それにもかかわらず、ゴエンカ氏はその状況を微笑みをもって受け入れ、かつての従業員たちに「国のために、変わらず努力し続けてください」と励ましました。

そして、彼は次のような詩を詠みました。

「自然がそう望むならば・・・この聖なる大地の塵と、私の肉体の一つひとつの原子が交わりますように
もし自然が私にさらなる命を授けてくださるならば・・・この命の一呼吸一呼吸が母なる祖国への感謝に満ちて流れていきますように」(原語のラージャスターニー語の意訳)

黄金時代
 

 最終的に、命の危険は取り除かれ、ゴエンカ氏は後に「黄金期」と呼ぶ時期を迎えることになりました。事業から解放された彼は、ますます多くの時間を師であるウ・バ・キン氏と共に過ごし、ダンマ(解脱の教え)に没頭する時間を多く取りました。ゴエンカ氏自身にとって、それ以上望むものはありませんでした。

 

 しかし、ウ・バ・キン氏には別の計画がありました。彼は、ブッダが亡くなってから2,500年後、ミャンマーから教えがその発祥の地であるインドに戻り、そこから世界に広がるという古代の予言を思い出していました。

​ ウ・バ・キン氏の最も切なる願いは、ヴィパッサナー(ブッダの教えの本質)をインドに再び確立し、その予言を実現させることでした。

 

 当時(1960年代)のミャンマー政府は、自国民が外国へ出国することを原則として認めていませんでしたが、ゴエンカ氏はインド系であったため、特例として許可が下りる可能性がありました。

 そして、1969年、ついにインド行きの機会が訪れました。ゴエンカ氏の両親はすでにインドへ移住しており、その母親が病気になったのです。政府は彼にインドへの渡航が可能なパスポートを発行しました。

 出発前に、ウ・バ・キン氏は正式にゴエンカ氏をヴィパッサナーの教師に任命しました。ゴエンカ氏はミャンマーでインド系ミャンマー人を対象として2つのコースを行い、その間、ウ・バ・キン氏が彼のそばで指導を行いました。最初のコースは、マンダレー市内のビルの屋上で開催され、近くの映画館から聞こえる音楽が鳴り響いていましたが、参加者はそれを気にせず瞑想を続けました。ゴエンカ氏にとっては、偉大な師から直接指導を受けながら現場で実践できたことは、まさにかけがえのない学びの機会でした。

 ゴエンカ氏はウ・バ・キン氏の指導の下で説法を行い、ヒンディー語で講話を行いました。時折、ウ・バ・キン氏はゴエンカ氏に「今、ブッダの弟子たちについて話しなさい!」「母ビサーカについて話しなさい!」「アングリマーラについて話しなさい!」と指示し、ゴエンカ氏はそのたびに話していた内容を中断し、師の指示に従ってそれらの物語を語りました。

後年、ゴエンカ氏は次のように語っています。

「私にとって法話をすることは、蛇口をひねるようなものでした。努力せずとも、言葉が自然と流れ出てきたのです。」

インドへ
 

 1969年6月、ゴエンカ氏はヤンゴンからインドのコルカタ行きの飛行機に乗りました。出発前にウ・バ・キン氏は彼に言いました。「行くのは君ではない。私が行くのだ、ダンマが行くのだ!」 ウ・バ・キン氏自身はミャンマーを離れることができませんでしたが、彼はゴエンカ氏をダンマの使者として送り出しました。

 ゴエンカ氏はこの瞬間が歴史的なものであることを強く意識していましたが、インドでの滞在は短期間で、すぐに師のもとに戻ると思っていました。実際には、20年以上もミャンマーに戻ることはありませんでした。彼が到着したインドでは、ブッダの教えは軽視され、「ヴィパッサナー」という言葉さえも忘れ去られていました。しかし、家族の助けを借りて、ゴエンカ氏はすぐに1969年7月3日から13日まで、ムンバイで最初の10日間コースを開催しました。参加者の中には両親と数名の人々が含まれ、その中にはフランス人女性もいました。最終日に彼女はゴエンカ氏をフランスに招待しましたが、彼は「10年後に招待してください」と答えました。

 この最初のコースを皮切りに、次々とコースが行われ、ダンマの輪が再びインドで廻り始め、ミャンマーへの帰国は延期されました。インドでヴィパッサナーを学ぶ人々が増え、ダンマの使者であるゴエンカ氏はそれを拒むことはできませんでした。インド国内を頻繁に移動して、満員の列車の三等車で旅をしました。古くからの学生がいなかったので、彼自身がコースの会場を設営し、食事の際には生徒と一緒に座ったり、食事を配ったりもしました。ラージギルでは一晩中、嵐となり、瞑想用のテントが吹き飛ばされたこともありましたが、ゴエンカ氏は翌朝早くには席に座り、詠唱をして瞑想者たちを励ましました。

 コース開催の条件は厳しく、お金も支援もほとんどなく、彼の妻イライチ(瞑想者たちには「マタジ」と呼ばれました)も最初はミャンマーに残っていました。それでも彼は生まれながらにして果たすべき仕事に従事する喜びを放っていました。

 初期の頃、ゴエンカ氏はヒンディー語だけで教えていました。英語も話せましたが、それはビジネスのために学んだもので、ヴィパッサナーを教えるための英語力には自信がありませんでした。しかし、評判が広がるにつれて、外国人が彼のコースに参加したいと求めるようになりました。1960年代後半から1970年代初めにかけて、多くの西洋人が、インドを訪れて何かを求めていましたが、それが何であるかはっきりとは分からない人々もいました。彼らはゴエンカ氏にコースを受けさせてほしいと頼みましたが、彼は言語の問題を理由に断りました。それでも彼らはあきらめず、ミャンマーのウ・バ・キン氏に手紙を書きました。まもなく、ヤンゴンからの手紙が届き、ゴエンカ氏に英語のコースを提供するよう命じられました。彼はいつものように、師の望みに従いました。

 最初の英語コースは、1970年10月にヒマラヤの丘陵地帯ダルハウジーで開催されました。そこや後にブッダが悟りを開いた地であるブッダガヤには、次々と若い西洋人がゴエンカ氏を訪れました。その中にはヒンドゥー教の修行者のように髪を長く伸ばし束ねてる人や、海辺の休暇にでも出かけるかのような服装の人々がいました。

多くの男性はひげを生やし、多くの女性は長い髪を背中に垂らしており、それはきちんと三つ編みにするという「インドの女性らしさ」からは外れたものでした。

けれども、ゴエンカジにとっては、そうした乱れた身なりなど問題ではありませんでした。彼は、訪れるすべての人にダンマの宝を分かち与えました。

中には、10日間のコースを一度受けてその後姿を見せなかった人たちもいました。

一方で、インド各地のコースをゴエンカジとともに巡り続ける人たちもいました。

その中には、後にさまざまな伝統の中でよく知られるようになった人物たちもいれば、現在ではゴエンカ氏によって任命された最も古参の指導者として活動している人たちもいます。

 まもなく、旅行者向けのコーヒーショップやレストランには、ヴィパッサナー・コースのお知らせが掲示されるようになりました。時には、指導者のことを「歌うグル」と紹介するものもありました。というのも、ゴエンカ氏は、豊かで美しい響きを持つ声の持ち主だったからです。その声で、ブッダの教えに基づく古い詩句を詠じたり、自作のヒンディー語やラージャスターン語の詩を唱えたりしていました。冷え込んだ朝や夜遅くの瞑想ホールに静けさが満ちるなか、その声は空間に響き渡り、聴く者の心を慰め、導き、励まし続けました。

 コースの初日、ゴエンカ氏は入室して座り、静かに待ちました。受講者たちがそれぞれの場所を見つけ、座布団を整え、静寂の中に入っていくのを見守っていたのです。そして、彼が口を開いた瞬間、古びた借家の一室や隙間風の吹くテントは、時を超えた場所へと姿を変え、そこにいる全員が、自らの内なる真理を探求する旅へと導かれていくのでした。彼は、一日中、受講者たちとともにその場に居続けました。詠唱も、日中の指示も、夜の講話も、すべてをその場でライブで行いました。

ダンマ(法)は、彼の内からあふれ出ていたのです。

午後9時、1日のプログラムが終了しました。夜明け前の冷え込みの中で始まった長い一日に、受講者たちは疲れていました。けれども、ほとんどの人はホールに残りました。夜の質疑応答の時間を逃したくなかったのです。人々は列をつくったり、ゴエンカ氏の席の近くに集まったりしました。質問者の中には、明らかに挑戦的な態度や議論を望んでいる人もいれば、心から混乱し不安になっている人もいました。自分の考えが正しいと確かめたがる人もいれば、ゴエンカ氏の間違いを証明しようとする人もいました。ゴエンカ氏は、どんな質問者にも微笑みをたたえ、優しく、時に笑いながら応じていました。やがて、質問者たちも一緒に笑っていることがほとんどでした。彼らは、話された内容をすべて覚えていないかもしれません。

けれども、「必要な答えを受け取った」と感じていたのです。

 コースの最終日、ゴエンカ氏は締めくくりの法話を行い、数分間、受講者たちとともに瞑想しました。そして、ホールを出るときには、ヒンディー語でこう唱えながら歩いていきました。

「Sab ka Mangal ho(すべての人が幸せでありますように、すべての人が幸せでありますように)」

その声は、次第に遠くなっていきました。

瞑想者たちは、再びインドのどこかの古びた部屋に戻ってきました。外からは、物売りの呼び声や犬の鳴き声が聞こえ、これから会う友人や家族、読むべき手紙、乗るべき列車、立てるべき計画が待っていました。けれども、その多くの人にとって、何かが変わっていました。

 人生は、もう以前のままではなくなっていたのです。

これが唯一の恩返し
 

 ゴエンカ氏は定期的に師に報告しており、ウ・バ・キン氏は彼の手紙を大いに喜びました。あるコースで生徒が37人いたことを報告すると、ウ・バ・キン氏は「37人とは、まるで三十七菩提分法(※仏教において悟りに至るための修行)のようだ」と古代パーリ語の経典に記されている言葉を用いて言いました。

その後、ゴエンカ氏が100人規模のコースを実施したことを報告すると、ウ・バ・キン氏はさらに満足げでした。
けれども、その当時は誰も、やがてそれほどの規模が「小規模なコース」と見なされるようになるとは思いもよりませんでした。

 1971年1月、ゴエンカ氏がブッダガヤのビルマ仏教精舎で指導していたとき、一通の電報が届きました。
サヤジ・ウ・バ・キン氏が、ついに息を引き取られたという知らせでした。「光が消えてしまった――」
ゴエンカ氏は、そう受講者たちに伝えました。その喪失の痛みは、深く強く感じられました。しかしまもなく、彼はある気づきを得ました――師の存在が、これまで以上にはっきりと感じられたのです。まるで、ウ・バ・キン氏がついにインドに来て、自分と共に歩みはじめたかのようでした。

 今、自分にできることは、ただ前へ進み続けることしかありませんでした。師は、自分が苦しみの出口を見出せずにいたとき、道を示してくれた人でした。愛情をこめてヴィパッサナーを授け、自らが教えることができるよう訓練してくれました。
教師として任命し、使命を与え、旅立たせてくれたのです。その使命を、ゴエンカ氏は生涯かけて果たしていくことを決意しました。毎朝の詠唱の中で、彼はこう宣言していました。

全身の毛穴から、感謝があふれ出る。この恩を返すことなど、私には決してできない。ただ、ダンマに生き、
苦しむ人々に奉仕し、ダンマの幸せをすべての人と分かち合う―それだけが、たった一つの恩返し。

だから彼は、それを実行し続けました。インド南部の果てからヒマラヤに至るまで、西のグジャラートの砂漠から東のベンガルの密林に至るまで―ゴエンカ氏は、ただひたすら歩みを進めました。風景は変わり、人々の顔ぶれも変わり、自らの姿も変わり、老いていきました。けれども、その旅路は、決して止まることはありませんでした。

ダンマの丘
 

最初の数年間、コースは一時的な施設で実施されていました。アシュラム、精舎(ヴィハーラ)、教会、学校、巡礼者の宿泊所、ホステル、療養所など、安価に利用できる場所があればどこでも開催しました。それぞれの場所で開催はできましたが、不便さもありました。毎回、コースの開始前の設営を行い、終了後には撤収作業を行わなければなりませんでした。

 そのため、通年でヴィパッサナー瞑想のコースを提供できる、専用の場所を探す取り組みが始まりました。このような背景の中、1973年の年末、ゴエンカ氏がデオラリでのコースを終えてムンバイの自宅に戻る途中のことでした。イガトプリの町で、一人の店主と若い市職員が、道を走るゴエンカ氏の車を呼び止めたのです。彼らは町の外にいくつかの候補地を見つけており、どうか見てほしいと懇願しました。ゴエンカ氏は仕方なく同意しました。というのも、彼は最近足を骨折しており、ギプスをしていたため、早く帰宅したいという思いがあったからです。

 最初の2か所は、明らかに適していませんでしたが、もう1か所だけ残っていました。車は、長らく使われていなかったでこぼこの道へと入りました。道の先には、丘の上に大きなマンゴーの木々が立ち並び、イギリス統治時代の建物が点在していました。いくつかは老朽化し、山羊がバンガローの中を出入りしていました。背後には、草も木もない山肌がそびえていました。

ゴエンカ氏はしばらく目を閉じ、静かにこう言いました。

「ここは、ふさわしい場所です」

するとその場で、同行していた実業家がこの土地の購入を申し出ました。これが、のちに「ダンマギリ(ダンマの丘)」と呼ばれる場所の始まりでした。

 センターは、ささやかな形でスタートしました。住み込みの瞑想者は主に西洋から来た数人でした。彼らはゴエンカ氏に手紙を書き、「私たちはどう過ごせばよいでしょうか?」と尋ねました。ゴエンカ氏の答えはこうでした。

「瞑想しなさい、瞑想しなさい、瞑想しなさい。自分を清め、瞑想センターを清めなさい」

 彼らはまず、井戸の水とたわしを使って掃除から始めました。十分な空間が整うと、1日6〜8時間を本来の目的である「坐ること(瞑想)」にあてました。やがて、さらに多くの人が集まり、建設が始まりました。ダンマギリは1976年10月に正式にオープンしました。

 それは感動的な瞬間でしたが、同時に困難な時期でもありました。というのも、よくあるように、予算を超過してしまい、トラストでは建設業者に支払いができない状態だったのです。たとえば、新しい指導者用の住居を建てる費用も不足していました。ゴエンカ氏はそれを知ると、そこに泊まることを拒否しました。代わりに、妻マタジーとともに、まだ配管設備もない宿泊棟に移り住みました。宿泊棟の隣には竹のすだれで囲った簡易の沐浴スペースが設けられ、共用トイレを他の人々と同じように使って生活したのです。このようにして、センター開設から最初の半年間、ゴエンカ夫妻はその質素な暮らしを貫き、業者への支払いが完了するまで耐え抜きました。

 

 その後、寄付が増え、建物が次々に建てられ、ヤンゴンのウ・バ・キン氏のセンターにあるようなパゴダ(仏塔)の建設が始まりました。西洋のボランティアたちはインド人労働者とともに作業に取り組み、ブッダガヤのビルマ精舎にいた僧侶が装飾漆喰の仕上げを手伝ってくれました。そして1979年初頭、仏塔が正式に完成しました。典には、ウ・バ・キン氏のセンターで学生の指導を補佐していたサヤマー・ドー・ミャー・トゥイン氏と、彼女の夫でウ・バ・キン氏の政府勤務時代の部下だったウ・チッ・ティン氏も出席しました。

 その後まもなく、もう一つの大きな転機が訪れました。ゴエンカ氏が、初めて西洋でコースを教えるために飛行機に乗ったのです。10年前、彼を招こうとした一人の女性は、そのときの言葉を忘れていませんでした。そして今回は、フランス・ヨガ教師連盟からの正式な招待状を手にして、再び彼に連絡を取ったのです。

新たな焦点

 ゴエンカ氏の使命は大きく前進しましたが、彼は新たな問題に直面しました。それは、ヴィパッサナーを学びたいという大勢の人々にどのように対応すべきかということです。ゴエンカ氏は一人で教えていましたが、大規模なコースでも彼が個人的に対応できる生徒数には限りがありました。唯一の解決策は、アシスタント指導者を養成し、彼らに代表としてコースを教えさせることでした。1981年末から、彼はアシスタント指導者の養成を始め、彼らがコースを導く際に自身の教えを録音したものを使用するようにしました。最初のアシスタント指導者による10日間コースは、ゴエンカ氏自身がかつて時間を過ごしたボードガヤのビルマビハラの巡礼者用宿泊施設で行われました。それから数か月の間に、世界各地でコースが提供されるようになりました。現在では、何百人ものアシスタント指導者が、150以上の常設センターや一時的な施設で、毎年約2,500コースを導いており、約15万人の人々が参加しています。1994年からは、ゴエンカ氏は最も経験豊富なアシスタント指導者を正式な教師として任命しました。現在、世界中に300人以上の教師がいて、コースやセンターを指導しています。

 アシスタント指導者制度が導入され、ゴエンカ氏は大規模なプロジェクトに専念できるようになりました。彼は公の場での講演により多くの時間を割き、2000年にスイスのダボスで開催された世界経済フォーラムをはじめ、多くのイベントに登壇しました。彼はヴィパッサナー研究所(VRI)を設立し、ブッダの教えを記録した最も古い文献であるパーリ語のティピタカを、さまざまな国の文字で無料配布できるようにしました。また、彼はインドのティハール刑務所をはじめ、多くの矯正施設でヴィパッサナーのコースを実施し、1994年4月には「千人コース」をティハールで自ら指導しました。さらに、彼は子供向けのコースを開始し、ブッダの教えやヴィパッサナー瞑想に関する多くの著作を執筆しました。また、ムンバイ郊外に「グローバル・ヴィパッサナー・パゴダ」を建設する計画を立ち上げました。このパゴダは、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダの小規模なレプリカとして建設され、ブッダの教えを学びたい人々を引き寄せることを目的としています。同時に、ヴィパッサナーの贈り物をインドに返してくれたミャンマーとウ・バ・キン氏への感謝の永続的な象徴でもあります。

 年月が経つにつれて、ゴエンカ氏には多くの栄誉や賞が贈られました。「知識の海」「ダンマの先駆者」「教義の達人」「偉大な在家のヴィパッサナー指導者」などの称号が彼に授与され、ミャンマーとスリランカの政府からは国家賓客として招かれました。2012年には、インド政府から国内最高の民間人賞の一つである「パドマ・ブーシャン(貴重な蓮)」を授与されました。しかし、ゴエンカ氏はこれらすべてを「ダンマのための栄誉」だと言い続けました。

晩年
 

 ゴエンカ氏は晩年、健康状態が悪化しました。彼は車椅子での生活を余儀なくされ、かつての力強い声は弱くなり、長時間の講演が困難になりました。しかし、病気や老いの苦しみを経験しながらも、彼はその仕事を決して放棄せず、できる限りの力でダンマを教え続け、人々に実践を奨励しました。

 彼の名声が高まるにつれて、彼に対する尊敬も増し、ある人々は彼を伝統的なインドの「グル」として扱うようになりましたが、ゴエンカ氏はこの役割を常に拒否していました。グローバル・パゴダに現れると、群衆が彼に触れようと殺到し、彼から何らかの「魔法」を得られると思っていました。このような行動は彼を当惑させました。彼は「私はただの普通の人間です」と言い続け、2002年のニューヨークでの講演後にも「私をグルとは呼ばないでください」と語りました。インドでは教師を「グルジ」と呼ぶことが一般的で、一部の生徒たちは親しみを込めて彼をそう呼んでいましたが、彼自身はパーリ語の「カリャーナミッタ(kalyāṇa-mitta)」、つまり「自分の福祉のための友」という伝統的な称号を好んで使っていました。

彼はまた、生徒たちが彼を写真に撮ることも止められず、カメラを向けられると冗談を言いました。「何だ、まだ私の写真が足りないのか?」と笑いながら言ったこともありました。しかし、彼はヴィパッサナーセンターの瞑想ホールや他の公の場所に自分の写真を飾ることを許しませんでした。彼が「悟りを得たのですか?」と尋ねられると、いつも「自分の心から怒りや憎しみ、悪意を取り除いた分だけ悟りを得ている」と答えました。彼は決して特別な段階に達したとは言わず、せいぜい「私は少しだけ先を歩いているだけです」と穏やかに語りました。

 コースの最後に生徒たちが感謝を述べると、彼はいつも「私はただの道具に過ぎません。ダンマに感謝してください。そして、自分自身にも感謝してください。よく頑張りましたね」と答えました。

 2010年、彼は「ウ・バ・キン氏はダンマをもたらした人物よりも重要です。アショーカ王がかつてダンマを隣接国に広めるために使者を送った時、彼らの名前は忘れ去られました。だから、今日のブッダの教えの新しい時代においては、ウ・バ・キン氏の名前が人々の記憶に残るべきです。」と言いました。彼は自分の名前が人々に覚えられるかどうかには興味がありませんでした。

 それでも、彼を知っていた人々にとって、ゴエンカ氏は忘れられない存在となるでしょう。ウ・バ・キン氏は「ヴィパッサナーを実践する時が今まさに来た」と言いました。世界中の多くの人々にとって、サティヤ・ナラヤン・ゴエンカがそのメッセージを届けた存在でした。彼はダンマの生きた体現者、つまり知恵、謙虚さ、慈悲、無私、そして平静の象徴でした。ゴエンカ氏はダンマの優しさについてよく語っていました。彼自身の優しさも、ホールを去る際に『すべての人々が幸せでありますように…幸せでありますように…幸せでありますように』と詠唱していた声の響きのように、長く人々の心に残るでしょう。

鍵束

以下は、ゴエンカ氏が10日間コースの最終講話で語った物語です。出版のために軽く編集されています。

私たちの国にはこんな話があります。ここ10日間、皆さんはいくつもの物語を聞いてきました。もしかしたら、皆さんの先生は物語を語ることに中毒になっているかもしれません。そして皆さんも、それを聞くことに中毒になっているかもしれません。ですから、お別れの前にもう一つ物語をお聞かせしましょう。

 私たちの国のある老人、非常に裕福な男が寡夫になりました。妻が亡くなってしまったのです。そして、私たちの国では、そしておそらくここでも、家の主婦がすべてのものを管理しています。お金や宝石、財産すべてを管理しており、彼女が鍵束を持っています。さて、その妻が亡くなり、老人には四人の息子と四人の嫁がいました。彼は鍵束を皆に渡すことはできません。一人を選ばなければならなかったのです。そこで彼は皆を呼び集めてこう言いました。「試験を行う。鍵束は最高得点を取った者に渡す。」と。

 さて、彼はどのようにして彼女たちを試験するつもりだったのでしょうか?彼はそれぞれの嫁に5粒のトウモロコシを渡してこう言いました。「私は4年後に戻ってくる。この5粒を保存しておかなければならない。5粒のトウモロコシも管理できないなら、お金や宝石、倉庫の穀物をどう管理できるだろうか?これはお前たちの試験だ。」そして老人は去りました。

 最年長の嫁はこう思いました。「老人は気が狂ったんだ!4年間もこの価値のない5粒に気を配るなんて、そんなの馬鹿げている。捨ててしまったほうがいいわ。彼が戻ってきたら、別の5粒を倉庫から持ち出して、彼に渡せばいい。」そして彼女はトウモロコシを捨てました。

 二番目の嫁はこう考えました。「そうだな、この5粒に4年間も悩むのは良くない。だけど、もしかしたらこの5粒には何か素晴らしい、魔法のような力があるかもしれない。4年後に彼が『さて、これを食べなさい!』と言った時、それを食べたら超自然的な力を手に入れられるかもしれない。今捨てるべきではないわ。今食べてしまったほうがいい。」そして彼女はその5粒を食べてしまいました。

 三番目の嫁は、鍵束を何としても手に入れたいと強く願い、その5粒を部屋に保管し、毎日像を見に行くたびに、その5粒も確認しました。彼女は4年間その5粒を大切に保管しました。

 四番目の嫁は、5粒を受け取ると、家の裏の土地を耕し、それを植えました。時が経つと5本の植物が育ち、それぞれ100粒の穀物を実らせました。次の季節には、その500粒をすべて植えました。次の季節には、穀物が何トンも収穫できるようになっていました。

 4年後、老人が戻ってくると、それぞれの嫁は自分の話をしました。四番目の嫁に質問すると、彼女は言いました。「それらは増えましたよ、旦那様。倉庫は穀物でいっぱいです。労働者を連れてきて穀物を運び出してください。」

 老人は非常に満足しました。この嫁は5粒のトウモロコシを保存しただけでなく、それを何倍にも増やしたのです。

 老人はとても喜びました。そして、この娘には5粒のトウモロコシを保存しただけでなく、それを何倍にも増やしました。

 この老人も、皆さんに5粒のダンマを与えました。それを保存するだけでなく、増やしてください。そして、私はこの鍵束を持ち去ることはありません。それは皆さんと共に残ります。ダンマを増やしていくことで、皆さんは自分自身の中にある天国の王国の扉を開けることができ、喜びを味わうことができます。内なる梵天の世界の扉を開けることができ、喜びを味わうことができます。内なる涅槃の平安の扉を開けることができ、喜びを味わうことができます。

 ダンマの中で成長し続けてください、ダンマの中で成長し続けてください。他人を喜ばせるためではなく、自分自身のために、自分の利益のために。そして、多くの他者の利益のために、多くの他者のために。

質問と回答

以下は、S. N. ゴエンカ氏へのインタビューの一部であり、よくある質問に対する回答が含まれています。

質問: この道を歩むことでアラハン(arahant)になれるとしたら、あなたはどの段階に達していますか?

回答: ヴィパッサナーの道を進むことで、誰でも自分の心の不純物を取り除き、最終的には完全な解放に達することができます。しかし、各人がどの段階にいるかは、自分自身で理解する必要があります。私はただのガイドであり、道を示す役割を果たしています。すべての進展は個人の努力と精進によるものです。


質問: 「カリャーナミッタ(kalyāṇa-mitta)」とはどういう意味ですか?

回答: 「カリャーナミッタ」とは、パーリ語で「善き友」を意味します。ブッダは、道を歩む上での善き友の重要性を強調しました。カリャーナミッタは、単なる友ではなく、あなたの福祉のために真に助けとなる友であり、正しい道を指し示してくれる存在です。
 

質問: あなたの日常生活の典型的な1日はどのようなものですか?

回答: 私の日常生活は非常にシンプルです。瞑想と教えの実践が中心です。朝は早く起きて瞑想をし、日中はダンマに関する執筆や研究、瞑想センターでの指導を行っています。また、生徒たちの質問に答えたり、ダンマを広めるための活動にも取り組んでいます。


質問: あなたの人生において、最も重要な瞬間、すなわち人生の目的を果たしたと感じた瞬間はいつですか?

 

回答: 私にとって、最も重要な瞬間はヴィパッサナーに出会った時です。この技術を通じて、私は自分自身の内なる真実を発見し、心の解放に至る道を見つけることができました。それ以来、私はこの技術を他の人々と共有することに生涯を捧げてきました。そして、ヴィパッサナーを通じて多くの人々が変容し、苦しみから解放されるのを見るたびに、私の使命は果たされたと感じます。


 

VRIJについて: テキスト
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