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वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み成し遂げてください

心を健康に保つ

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

S. N. ゴエンカ氏による医療従事者への講話

 以下は、1991年7月、マサチューセッツ州ノーサンプトンにあるスミス大学ソーシャルワーク学部で行われた講話を要約したものです。

 

 友人の皆さん、そしてソーシャルワーカーの皆さん。

 

 医療や福祉に携わる方々が直面する問題と、その解決法について考えてみましょう。社会奉仕という仕事は、非常に崇高な仕事です。もし生活のためではなく、無私に社会奉仕をするなら、それにまさるものはありません。たとえ生計を立てる手段としてこの仕事に就いているとしても、それでもなお、この仕事は非常に健全で、価値ある生き方です。

 

 ソーシャルワーカーの役割は、人を助けることです。人々は、憂いを顔に浮かべ、苦しみや痛みを心に抱えて、皆さんのもとへやって来ます。皆さんは、その人たちが苦しみから抜け出し、内なる真の安らぎと喜びを味わえるように助けます。これ以上にすばらしい仕事があるでしょうか。

 

 しかし、このように崇高な仕事である一方で、そこには多くの危うさもあります。他者に奉仕しようとするこの尊い努力も、自分自身を適切にケアしていなければ、かえって自分の苦しみの原因になり得るのです。

 

 たとえば、将来への不安や恐れに苦しむ人が皆さんのもとへ来たとしましょう。その人は、動揺と不幸に満ちた波動を生み出しており、苦しみの渦の中に巻き込まれています。

 

 その人をしばらくカウンセリングしているうちに、皆さん自身もまた、その同じ渦に引き込まれていることに気づくかもしれません。

 

 心の非常に深いところには、さまざまな心の傾向の種子が潜んでいます。それらは、いろいろな苦しみを引き起こす原因となります。クライアントの波動は、皆さんの心の奥底に眠っている「将来への恐れ」の種子に触れます。その種子から生じる皆さん自身の波動は、クライアントが生み出している波動とまったく同じ性質のものです。そのため、皆さんの波動はクライアントの波動と同調し、自分の中にある恐れや不安、苦しみの種子が刺激されます。

 

 それが起こっていても、すぐには表面に現れないため、自分では気づかないこともあるでしょう。しかし時間がたつにつれて、恐れを抱えた患者に接し続けるうちに、自分自身の問題がだんだん大きくなっていることに気づくようになります。こうした苦しみの種子を心から取り除かない限り、臨床家としての仕事は、自分自身の心身の健康を害することになります。足の不自由な人は、別の足の不自由な人を支えることはできません。目の見えない人は、別の目の見えない人に道を示すことはできません。

 

 では、どうすれば他者を助けながら、自分自身も守ることができるのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想の実践は、この問いに対する答えを与えてくれます。ヴィパッサナーとは、心と物質の科学です。心の中に生じるものが、恐れであれ、不安であれ、情欲であれ、自我であれ、それらは非常に凝縮され、強まったかたちで現れ、私たちを圧倒しがちです。

 

 たとえば、誰かが自分の気に入らないことを言ったとしましょう。あるいは、侮辱されたとしましょう。すると私たちは怒りで反応し、苦しみます。その怒りによって相手を傷つけたかどうかは分からないかもしれませんが、自分自身を傷つけたことは確かです。怒りの最初の犠牲者は、自分自身なのです。侮辱されたのは一度だけであっても、その出来事を心の中で何度も繰り返し再演し、そのたびに怒りという深い反応パターンをさらに強めてしまいます。

 

 心のレベルで怒りに反応すると、すぐに身体のレベルでも何かが起こり始めます。血液の中に、ある種の生化学的な分泌が流れ始めるのです。怒りによって生じるこの特有の分泌は非常に不快で、その不快な感覚を感じるために、私たちはさらに怒ります。そして、さらに怒ることで、また新たな生化学的分泌が生まれます。こうして悪循環が始まります。

 

 同じように、情欲や恐れにも、それぞれ特有の分泌があります。この流れを生み出しているのは、他の誰でもなく私たち自身です。私たちは、自分の内側に起こるこの生化学的反応に反応することによって、毎瞬間、自分の苦しみを増やしているのです。

 

 しかし、反応する代わりにただ観察するなら、この悪循環は力を失い、弱まり、やがて消えていきます。この仕組みを理解しなければ、そこから抜け出すことはできません。私たちが「私」「私のもの」と呼んでいるこの心身の全体構造は、絶えず変化し続ける波動にほかなりません。それを支配することも、変化しないものにすることもできません。それは変化するよう定められており、実際に変化しています。ただ、さまざまな周波数や波長をもつ流れであり、波動なのです。

 

 これが、私たちの身体構造についてのより深い真実です。この現実を直接体験することは、非常に深い影響をもたらします。

 

 私たちは、不安定さという現実に対して微笑むことができます。「見てください。変わり続けているのです。だから何でしょう。心配や不安があっても、だから何でしょう。この状況もまた変わっていくのです」と。

 

 私たちは、変化していく波動を観察します。あるいは、生じては消えていく感情を観察します。もし客観的に観察しなければ、それらは私たちを圧倒し、さらに増大して、私たちを苦しみのかたまりにしてしまいます。この真理は、知的なレベルや信仰のレベルで受け入れるだけでは十分ではありません。体験のレベルで実現されなければならないのです。それを教えるのがヴィパッサナーです。

 

 生徒が10日間のヴィパッサナー・コースに来るとき、その人はまず、この身体という枠組みの中で何が起こっているのかを探るよう求められます。どのような真実が現れているのか。今、何が起こっているのか、と。最初は粗いものから始めますが、それでもなお現実です。最初に体験するのは呼吸の流れです。息が入ってきて、息が出ていく。

 

 自然に、何の努力もなく起こっている呼吸です。私たちは息を吸おう、吐こうと努力するわけではありませんし、呼吸をコントロールしようとするのでもありません。この技法の全体は、現実を一瞬一瞬、あるがままに観察する能力を育てることにあります。自分が望むようにではなく、現れているそのままに観察するのです。ですから、呼吸をそのまま観察します。

 

 深ければ深い、そのままです。浅くしようとはしません。浅ければ浅い、そのままです。深くしようとはしません。もし片方の鼻孔だけを通っているなら、それをそのまま受け入れます。もう一方へ導こうとはしません。両方の鼻孔を通っているなら、それもそのままです。呼吸は入ってきて、出ていく。私たちはただ観察するだけで、何もしません。

 

 簡単であるはずなのに、実際にはそれがとても難しいことに気づきます。一呼吸か二呼吸を観察しただけで、心はさまよってしまいます。そして数分後になってようやく、「ああ、私は呼吸を観察するためにここにいるのだった。何が起こったのだろう」と気づきます。また始めます。一呼吸か二呼吸、そしてまた心はさまよいます。すると人は苛立ちます。「ただ呼吸を観察するだけなのに、こんなに簡単なはずのことができない。私はいったいどういう心を持っているのだろう。自然な呼吸の流れさえ観察できず、あちこち走り回ってしまうなんて」と。

 

 そのとき指導者は、こう言うでしょう。「いいえ、いいえ、反応してはいけません。ただ現実をあるがままに受け入れなさい。この瞬間の真実は、心がさまよってしまった、ということです。それを微笑みながら受け入れなさい」と。

 

 心の古い習慣的な反応パターンは、望ましくないことが起こると反応することです。そして今、皆さんは心にさまよってほしくないと思っている。けれども心はさまよった。そこで、嫌悪や怒りで反応してしまうのです。他人に対して怒りを向けようと、自分自身に向けようと、違いはありません。怒りは怒りであり、それは私たちを深く苦しめます。

 

 私たちは、真実をあるがままに受け入れることによって、この苦しみから抜け出します。「この瞬間、私の心はさまよってしまった」と。呼吸はそこにあります。そして、心がさまよったことを受け入れたその瞬間、注意は自然に呼吸へ戻ります。数呼吸観察すると、また心はさまよいます。そして「おや、またさまよってしまった」と気づきます。そして、また呼吸へ戻します。このように数日間続けていくうちに、心は落ち着き始めます。なぜなら、人は反応することなく、現実をあるがままに受け入えることを学んでいるからです。

 

 呼吸は、心および心の内容と深く関係しています。呼吸を観察していると、ある思いが生じることがあります。それは過去についての思いかもしれませんし、未来についての思いかもしれません。そして人は渇望や嫌悪で反応します。たとえば怒りが生じると、「見てください、怒りが生じた」と気づきます。その怒りの結果として、呼吸は自然さを失い、少し荒く、少し速くなります。そして、その怒りが静まると、呼吸が再び自然に戻ることに気づきます。つまり、この呼吸は心と、そして心の汚れと、強く結びついているのです。

 

 心が少し落ち着いてくると、人は別のことを体験し始めます。身体全体のあらゆる粒子において、毎瞬間、何らかの電磁反応、あるいは生化学反応が起きています。ふつう、表面レベルの心はあまりにも粗いため、身体構造のより深いレベルで何が起こっているのかを感じ取ることができません。しかし、集中した心をもてば、こうした非常に微細な感覚、生化学反応、流れ、波動などを感じ取ることができます。

 

 注意を鼻孔の入口から始めるため、最初にその部分の感覚を感じ始めます。それらはさまざまな形で現れます。たとえば、熱、汗、脈打ち、拍動、振動、チクチク感、緊張、張り、あるいはその他さまざまなものとして現れます。何らかの感覚をその場所に感じるのです。そして同時に、それを客観的に観察する訓練も受けます。「今、熱がある。だから何でしょう。これは熱です。脈打っている、かゆい――いろいろな感覚がある。では、どのくらい続くのか見てみよう」と。ただ客観的に観察するのです。

 

 4日目か5日目になると、このような感覚を全身に感じる段階に達することがあります。そして注意を頭から足先へ、足先から頭へと動かしながら、身体の感覚を観察し続けます。

 

 呼吸に対してそうであったのと同じように、感覚に対しても同じことが言えます。身体上のすべての感覚――熱、緊張、圧迫、振動――それらはすべて、私たちの心の汚れ、すなわち苦しみの原因となる煩悩と結びついています。怒りが生じると、身体全体に反応が起こります。熱、発汗、緊張、動悸。これらはすべて怒りと関係しています。同じように、恐れ、情欲、不安とも関係しています。心に何かが生じると、それは身体上の感覚として現れます。そして心が反応するのは、まさにこの身体上の感覚なのです。

 

 心の最も深いところには、過去から蓄積された苦しみの集積である、多くの隠れた反応パターンがあります。それらは潜在していて、何らかの刺激によって、いつでも不快な思い、あるいは不快な感覚として現れ、私たちを圧倒し、再び苦しませることがあります。実際には、私たちの心は毎瞬間、何らかの波動を生み出しています。その波動は肯定的なものかもしれませんし、否定的なものかもしれません。しかし多くの場合、それは不健全なものです。なぜなら、私たちは自分の内側の深いところで何が起こっているのかを知らないままでいるからです。

 

 望んでいないにもかかわらず、私たちは身体上の感覚に反応することによって、自分自身を傷つけています。こうして、苦しみを増大させているのです。そして、周囲の雰囲気全体もこの否定的な波動の影響を受けるため、私たちは他者にも害を与えています。一人ひとりが波動を発し、周囲に影響を与え、同時にまた、他者の波動から影響を受けているのです。

 

 ですから、もし皆さんが、自分の深層にある反応パターンと調和する波動を持ったクライアントに接すれば、それは皆さんの心の奥底で何かを引き起こし、しばしば皆さんを圧倒します。しかし、もしこうしたパターンから心を解放することができれば、皆さんの奉仕はすばらしいものになります。なぜなら、皆さんの心は健全で健康になるからです。他人が生み出す波動に対しても、微笑みながら向き合えるようになります。たとえそれが自分の中の何かを刺激しても、自分の反応を観察し、それを乗り越えることができます。沈み込むことはありません。それに圧倒されることもありません。それは、その苦しみから自由になっているということです。

 

 こうしたことは、すべて体験のレベルで実現されなければなりません。ただ話したり議論したりするだけでは役に立ちません。議論や講話は、私たちにインスピレーションや、ある種の指針を与えてくれるかもしれません。道を示してくれることはあります。しかし、その道を歩かなければならないのは私たち自身です。真実を実現するためには、自分の内側への旅をしなければなりません。心と物質の相互作用という真実を体験しなければならないのです。そして、それは実践によってのみ可能になります。多くの実践が必要です。

 

 ヴィパッサナーの生徒の中には、他者に奉仕する仕事をしている人が大勢います。たとえば、カウンセラー、ソーシャルワーカー、マッサージ療法士など、人を助けるさまざまな方法を実践している人たちです。私はそのような生徒たちに、一人の患者と次の患者のあいだに短い休憩を取るよう助言しています。少し待ちなさい――10分ほど――そしてリラックスしなさい、と助言します。

 

 カウンセリングでたまった緊張を身体のレベルで和らげることは、比較的簡単にできます。しかし、知らないうちに、その人の波動を自分の深いところに吸収してしまっており、それが皆さんを緊張のかたまりにしているのです。まずその反応を静めない限り、次の人と関わるべきではありません。ヴィパッサナーを実践し、身体全体の感覚を感じていれば、10分ほどで再びすっきりした状態になるでしょう。皆さんのバッテリーは再び充電され、次の患者に向かう準備が整います。

 

 清らかな心は、力強い心です。清らかな心は、つねに無限の愛に満ちています。情欲のかけらもない慈悲に満ちています。見返りを何も期待せず、ただ与えたいという思いに満ちています。これが清らかな心の性質です。愛に満ち、慈悲に満ち、共感喜に満ち、ウペッカーに満ちています。

 

 このような心で二言三言語るだけでも、その言葉は非常に力を持ちます。なぜなら、その心には非常に清らかな波動があるからです。患者は、皆さんが語るそのわずかな言葉だけでも、癒やされたと感じるでしょう。しかし、表面上は癒やしの言葉、カウンセリングの言葉を語っていても、心の深いところで動揺しているなら、その言葉に伴う波動は、そのような肯定的な効果を生みません。

 

 ですから、よき癒やし手になってください。そして、よき癒やし手となるためには、まず自分自身を癒やしてください。自分の内側深くへ入っていきなさい。心を静め、心を浄化しなさい。見返りを何も期待しない純粋な愛に満ちていること、慈悲に満ちていること、共感喜に満ちていること、そしてウペッカーに満ちていることを確かめなさい。

 

 そうすれば、仕事に伴うあらゆる危険が消え去ることが分かるでしょう。すべての落とし穴がなくなるでしょう。皆さんは強くなります。足の不自由な人が別の足の不自由な人を助けるのでもなく、目の見えない人が別の目の見えない人に道を示すのでもなくなります。

 

 ヴィパッサナーは、皆さんがよき人間になることを助けます。健康な人間になり、調和に満ち、平和に満ち、静けさに満ち、健全な心と健全な身体を備えた人間になることを助けます。健全な心があれば、皆さんは他者をよりよく助けることができ、本当に有能な社会奉仕者になることができます。どうか皆さんが、よき社会奉仕者となりますように。

 

 どうか皆さんが平安でありますように。幸せでありますように。解放されていますように。

 

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 ・質疑応答

 私は、感情は教師になり得る、怒りや悲しみから学ぶことができる、と感じています。これについて、ヴィパッサナーはどのように見ているのでしょうか。

 

 感情そのものが、私たちを苦しめるのではありません。もし私たちが感情をどのように観察するかを学べば、苦しみから抜け出し、そこから何かを学ぶことができます。しかし、その感情に自分を圧倒させてしまえば、私たちは苦しみます。ヴィパッサナーが教えることの一つは、こういうことです。感情が生じる。では、それを客観的に観察してみよう。「見てください。これは感情です。怒り、あるいは悲しみ、あるいは別の何かです」と。「それとともに、身体にどのような感覚があるかも観察してみよう。ああ、この感覚は無常だ。どのくらい続くのか見てみよう」と。このようにして、私たちは苦しみから抜け出していきます。

 

 ヴィパッサナーは内なる現実に焦点を当てます。それはそれでよいのですが、実際に多くの苦しみを引き起こしている外の現実はどうなのでしょうか。世界の現実の痛みに向き合ううえで、ヴィパッサナーはどのように役立つのでしょうか。

 

 理解してください。ヴィパッサナーは、日常生活の問題から逃げるためのものではありません。人は10日間のコースに来て、ヴィパッサナーの技法を学び、外の世界の問題に向き合う力を得ます。それは、身体を健康にするために病院へ行き、その後、世界の中で健康に生きるために病院を出るのと同じです。同じように、内側の現実を観察するこの技法を学べば、外の問題にも、より容易に向き合うことができるようになります。ヴィパッサナーを実践すれば、外の問題がすべて消えるということではありません。そうではなく、それらに向き合う力が高まるのです。

 

 外の世界の問題は、無知の闇の中に生きる個々人によって作り出されています。一本の灯がその周囲の闇を払うように、一人の人がヴィパッサナーを実践することによって、社会に影響を与えます。もしより多くの人々がヴィパッサナーを実践すれば、ゆっくりと、それは世界に肯定的な影響を与え始めるでしょう。たとえ一人だけであっても、その人は少なくとも問題に向き合い、解決策を見いだすことができるでしょう。そして、その解決策は健全な解決策となるでしょう。

 (出典:International Vipassana Newsletter 1992年9月号)

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