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वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み成し遂げてください

ダンマの生き方

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

(2005年、ムンバイのジャイナ教祝賀式典でのS・N・ゴエンカ氏による講話)
 

みなさま​

 本日、ここにお集まりいただいたのは、ダンマについて学ぶためです。これはみなさまがダンマに強い関心をお持ちであることを示しています。では、ダンマとは何かを共に理解してまいりましょう。

 まず最初に、知的なレベルで理解することが必要です。しかし、実際にはダンマは生きて実践してこそ、真に理解できるものです。最初は誰かの説明を聞いて、知的に理解しようと努める必要があります。そしてやがて、それを実践する段階に至ります。

 講話を聞くこと自体は、ダンマではありません。経典を読むことも、寺院に参拝することも、ダンマそのものではありません。体験してこそ、ダンマになるのです。

「体験してこそダンマです 言葉のみなら空しきこと

朝日が昇れば闇は消え さもなくば夜のまま」

 体験のないダンマ、生活に生かされていないダンマは無意味です。夜の濃い闇は、太陽が昇ってはじめて取り除かれます。

 いくら太陽や光を賛美しても、太陽が昇らないかぎり夜は暗いままです。同じように、ダンマも自分の内に昇らなければ、真に理解することはできません。

 わが国の偉大な人たちは、ダンマを簡潔に説いています。マハーヴィーラ尊師は「ダンマの中に人類の大いなる幸せがある」と言われました。普通の幸せではなく、大いなる幸せです。しかしそれが大きな結果をもたらすのは、生活の中で実践したときのみです。さらに尊師は「非暴力、自制、そして努力を行うことがダンマである」とも説かれました。そうでなければ、言葉や知識の遊びにすぎず、真の幸せはおろか、ささやかな幸せさえもたらすことはできません。

 別の偉人も、聴衆に合わせて異なる言葉を用いながら、同じことを説かれました。すなわち、非暴力・自制・努力という代わりに、道徳律(シーラ)、集中(サマーディ)、智慧(パンニャー)の三段階によってダンマは育まれるのだと。
 

シーラ(道徳律)

 一般的に言えば、生き物を殺すことは暴力であり、殺さないことは非暴力とされます。これをさらに深く理解してみましょう。もし誰かから安らぎや幸せを奪うなら、それもまた暴力です。奪わないなら非暴力です。これが第一の戒めです。

 第二は、盗みや強奪をしてはならない、というものです。誰かが大切にしているものを奪えば、その人の財産だけでなくやすらぎや幸せも奪うことになります。その痛みを理解するべきです。

 第三は、性的な不正を働かないことです。不倫などをすれば、ほかの人に苦しみを与えます。これもまた、相手から平安を奪う暴力です。

 第四は、嘘をつかず、乱暴な言葉を使わないことです。嘘やごまかしによって人を欺けば、その人の心の安らぎを奪います。また、他人に対して乱暴な言葉を投げかけ、怒らせれば、やはり心の平安を奪うことになります。これらの行為もすべて暴力に含まれます。つまり、誰かを殺すときだけが暴力ではなく、他人のやすらぎや幸せを奪うことすべてが暴力なのです。こうした戒めは「道徳律」「善行」「チャートゥリヤマ(四つの自制)」と呼ばれます。しかし単に「よいものだ」と信じるだけでは十分ではなく、生活の中で実践してはじめて利益をもたらすのです。

 さらに第五の戒めとして、酒や麻薬などのあらゆる中毒性のあるものに溺れないことが加えられました。なぜなら、たとえ「他人の安らぎを奪ってはならない」と理解していても、酔った状態では気づかぬうちに性的な不正を犯したり、嘘をついたり、乱暴な言葉を吐いて他人を傷つけてしまうかもしれないからです。

 最初の4つはシーラの根幹であり、5つ目も同じように重要です。人がダンマの法則に従って生きるなら、利益が生じます。もし聞くだけで実践しなければ、それは病気を抱える人が、医師に処方された薬を飲まず、処方箋に書かれた「朝二錠、昼二錠、夜二錠」という言葉を繰り返すようなものです。それで治るでしょうか。決して治りません。薬を服用してこそ、病が癒えるのです。同じように、ダンマも生活に取り入れて、生きてこそ利益をもたらすのです。
 

サマーディとパンニャー

 ダンマを日常生活に生かすためには、心を訓練し、集中させることが必要です。この第二の段階をサマーディと呼びます。

私たちは「何をすべきで、何をしてはならないか」をよく理解していても、実際には心を制御できないために、つい誤った行為をしてしまいます。薬物や酒に溺れていなくても、人は怒りや欲望、傲慢といった心の汚濁に溺れてしまいます。こうした心の汚濁の酩酊は、酒や麻薬の酔いよりも強いことさえあります。その影響下で、意図せずに暴力を働いたり、人々からやすらぎや幸せを奪ってしまうのです。ですから、サマーディ―すなわち心の訓練―は非常に重要です。

しかし、これだけでも十分ではありません。たとえ口や身体を使って暴力を犯すことなく、他人の平安を奪わなかったとしても、自らの心のやすらぎや幸せを奪ってしまえば、それもまた有害です。

 なぜなら、怒りや憎しみ、嫉妬、傲慢、欲望など、いかなる心の汚濁が生じても、それは心の均衡を失わせます。すると、やすらぎや幸せも平静さも失われます。これは害となります。なぜなら、心の汚濁によって平静を失った人は、周囲に動揺と不幸をまき散らすからです。そのような人と接した者たちもまた安らぎを失ってしまいます。したがって、自分が動揺すれば、他人も動揺させ、全体の雰囲気が乱れてしまうことを理解しなければなりません。

この問題に対処するために、第三の段階が説かれています。それは「タパ」と呼ばれます。私たちはその本当の意味を忘れてしまいました。タパとは外面的な苦行をすることではありません。タパとは、自分の心の奥深くで心の汚濁がどのように生じ、増大し、私たちを盲目にし、すべきことをせず、してはならないことをしてしまう、その実相を体験することなのです。

 これを、ある伝統では「パンニャー(智慧)」と呼びます。書物で学んだ知識や論理的推論としての智慧ではなく、自分の心の奥深くで実際に起こっていることを直接体験することによって育まれる智慧です。古代インドではこれを「プラグニャー」とも呼びました。

 しかし今では多くの古代の学びが失われ、プラグニャーの本当の意味も失われています。今日では単にその言葉を繰り返すだけになってしまい、人々はそれで智慧に到達したと錯覚しています。しかしパンニャーは直接体験を通して育まれるものであり、その方法を忘れてしまったのです。
 

怒りの例と自然の法則

 たとえば人が怒りを覚えると、その身体全体の化学反応が変化します。熱が生じ、心身は興奮し、ストレスが生まれ、鼓動が早くなります。この人はしばしば自分の怒りを正当化しようとします。「相手がひどい態度をとったから、自分は彼に怒っている。仕返しをしなければならない。懲らしめて、不幸にさせなければならない」と。しかし本人は気づいていません。そうした考えや行動によって、まず自分自身を不幸にしているのだということを。

 これは自然の普遍的な法則です。人は、まず自分自身を不幸にしないかぎり、他人を不幸にすることはできません。他人のやすらぎや幸せを奪う前に、必ず自分自身からやすらぎや幸せを奪ってしまいます。

 もし誰かを殺そうと考えれば、怒りや憎しみがまず自分の中に生じ、その人を苦しめます。もし盗みを考えれば、強欲や渇望が生じ、自らを苦しめます。もし性的な不正を考えれば、激情が生じ、自分を苦しめます。もし嘘をつこう、乱暴な言葉を使おうと考えれば、貪欲や傲慢が生じ、自分を苦しめます。

 つまり、言葉や身体の不善行を犯すときは、必ずまず内側の心の汚濁に影響されているのです。わが国の偉大な人物たちは、この真理を悟りました。すなわち「人は他者を殺す前に、まず自分を殺す」と。

偉大な人物とは、自らの体験に基づいて語る人です。人から聞いたことや書物で読んだことを繰り返すだけでは、耳には心地よく響くかもしれませんが、実際にダンマの生活に役立つことはありません。自ら体験するのでなければ、「他者を殺す前に自分を殺す」「他者のやすらぎや幸せを奪う前に自らのやすらぎや幸せを失う」という真理を深く理解することはできません。ましてや、ダンマを説くことはできません。

 わが国の偉大な人物たちにとって、真理を悟るとは単なる知的な思索ではありませんでした。彼らは自らの内でその真理を悟り、体験しました。ダンマについての書物を読むだけで、人は賢者にはなれません。議論や思索に耽るだけでも智慧は育ちません。私たちもまた、自ら目覚めなければなりません。ダンマは生き、体験されるべきものであり、果てしない論争や討論に浸るためのものではないのです。

 真のダンマは、心の汚れが生じるときに、それがどれほど大きな害をもたらすかを自覚するときに現れます。ダンマの光でこれを理解しないかぎり、私たちにとって夜は暗闇のままです。いくらダンマの法則を聞き、思索にふけり、儀式や競争に没頭して「自分は他より非暴力である」と思い込んでも、それは無益です。真実を自らの内に見たときこそ、真にダンマ的であるのです。
 

ヴィパッサナーの意味と実践

 古代において「内を見ること」はヴィパッサナーと呼ばれていました。真に見るとは、体験することを意味します。単に目を開いて見ることではありません。目を開いて私たちが見るのは色や形ですが、ヴィパッサナーとは体験することなのです。自分の内に真理を見、感じ、体験することこそ、本来の意味でした。

今日でも日常の言葉の中で「見る(passanā)」が「体験する」という意味で使われることがあります。たとえば「この音楽を聴いて、どんなふうに聞こえるか見てごらん」「このラスグッラを食べて、どんな味か見てごらん」「このビロードを触って、どんな手触りか見てごらん」と言うとき、単に目で見ることを指してはいません。音楽の質を体験し、ラスグッラの甘さを味わい、ビロードの柔らかさを感じることを意味しています。

 同じように、自分の内を見て、シーラを破ったときに内側で何が起きるのかを体験するのです。その体験を通して「これを繰り返すと自分が不幸になる、心の平安を失う」と理解します。すると、もう二度とそれをしなくなります。今や、誰かに平手打ちをしたり、罵ったりしようとは思わなくなります。なぜなら、それが自分の心の平安を失わせ、心を不安にさせると分かるからです。

 こうした真理を体験した人は、他の人に伝えるために言葉を使います。しかし時が経つにつれ、その言葉は哲学に変わり、弟子たちはその哲学に惹かれ、信仰を寄せます。信じる者たちは集まり、共同体をつくり、宗派を立ち上げます。するとしばしば、宗派や哲学を信じる人々の間に争いやエゴの衝突、「自分の方が優れている」という競い合いが生じ、果てには暴力にまで発展します。私たちは道を見失ってしまうのです。

真理とは、体験されるべきものであり、単に信じるだけのものではありません。心の奥底に生じるものは、すべて体験されなければなりません。怒りや恐怖が生じたなら、知的に分析するのではなく、自分の内に何が起こっているのかを体験するのです。これがヴィパッサナーです。

 他人が体験した真理は、その人自身の真理にすぎません。私たちはその人の言葉を信頼すれば、信じることはできます。しかし、それはまだ私たち自身の真理ではありません。それを自ら体験したとき、それが自分の真理になります。その日こそ、ダンマが自らの内に昇ります。真の非暴力が生まれます。そのとき、私たちは直接体験によって理解するでしょう。他人を殺す前に、他人のやすらぎや幸せを乱す前に、自らの命を蝕み、やすらぎや幸せを失っているのだと。この気づきは計り知れないほど有益です。なぜなら、誰ひとりとして、自分自身を不幸にしたいと願って暴力を行う者はいないからです。

 ありのままに真理を見て、想像を加えないこと。それが瞑想です。こうして私たちは、三つの段階に従います。すなわち、シーラ(道徳律・非暴力)、サマーディ(心の集中)、パンニャー(智慧)です。道徳律を守ることによって心は集中し、その鋭い心で真理を観察することで、直接体験から「心の平安を得るために何をすべきか」を学びます。

例を挙げましょう。小さな子どもが燃えている炭をおもちゃだと思って遊びたがり、母親が止めます。しかしある日、母親の目を盗んで炭をつかみ、熱さに泣き出します。そのとき、子どもは自ら体験します。「火は燃やすものだ」と。そして次からは自ら注意するようになります。

 同じように、私たちも内側を観ることを学ぶと、怒りやその他の心の汚濁の火が自分を焼いていることを知るようになります。人はしばしば「自分の怒りの原因は外にある」と誤解します。「あの人が自分を傷つけ、侮辱したから、自分は彼に怒っているのだ」と考えます。しかし内観を始めると、怒っているときに内側で自分が燃えていることに気づきます。そして「これは自分の責任だ」と理解するのです。
 

私の体験

今から五十年前、私は大きなためらいを抱きながら、師であるサヤジ・ウ・バ・キンのもとへヴィパッサナーを学びに行きました。というのも、私は「この道は仏教徒のためのものであり、ヒンドゥー教徒の自分が学べば、仏教に改宗させられるのではないか」と誤解していたからです。耳の奥には「自分自身のダンマの中で死ぬほうが、他のダンマに入るより良い」という言葉が鳴り響いていました。私は「どうすべきか」と悩んでいたのです。

しかし、どうしても選択の余地がない状況に追い込まれ、私は大きな不安を抱きながら師のもとに赴き、ダンマを学ぶことになりました。ところが一度ダンマを味わってみると、私は「これこそが真のダンマだ」と悟りました。そこには宗派主義などまったくなく、すべての人に適用される永遠の真理があったのです。

ダンマは宗派を超越しています。なぜなら、それは自然の法則、普遍的な法(ṛta)だからです。たとえば怒りが生じれば、人は怒りに燃え、苦しみます。自然はその人を罰します。これは決して変わることのない自然の法則であり、どの宗教に属していようと、誰にでも当てはまります。インドではこれを「スワバーヴァ・ダンマ(本性としてのダンマ)」と呼んできました。つまり、ものの本性こそがそのダンマなのです。怒りは怒りであり、それは誰にとっても燃やすものです。それを「ヒンドゥーの怒り」「イスラムの怒り」「ジャイナの怒り」「パールシーの怒り」と呼ぶことはできません。

怒りは、宗教に関係なく、すべての人を燃やします。これは因果の法則です。誰もこの真理の現れを止めることはできません。もしその結果を望まないなら、否定的な心や心の汚濁を生み出すことをやめればよいのです。火に手を入れれば、ヒンドゥーであろうとイスラム教徒であろうとパールシーであろうとシーク教徒であろうと、その手は燃えてしまいます。火のダンマは「燃やす」ことだからです。

自然の法則と国家の法には、大きな違いがあります。国家の法を破れば罰を受けます。しかしその罰は、時に非常に遅れてやってくることもあります。優れた弁護士を雇えば、罰を逃れることすらあります。しかし自然の法則を破れば、その罰は即座に訪れます。

逆に、自然の法則を破らず、それを守れば、報いもまた即座にやってきます。戒めを守り、慈しみや思いやり、随喜、平静さを育むなら、人は幸せで平安になります。心を浄め、汚濁から自由になることを学びなさい。そうすれば、どれほど大きなやすらぎや幸せを体験できるか分かるでしょう。
 

古代インドにおけるダンマと宗派性のなさ

 古代インドでは「ダンマ」とはただ「ダンマ」と呼ばれていました。ジャイナ・ダンマ、ヒンドゥー・ダンマ、バウッダ・ダンマ、キリスト教のダンマ、あるいは「私のダンマ」「あなたのダンマ」といった呼び方はありませんでした。

しかし残念なことに、真のダンマは様々な宗派に分かれてしまい、それぞれが儀式、服装、哲学を持つようになりました。個人的な体験を通してダンマ(すなわち自然の法則)を理解しないかぎり、真のダンマの知識は失われてしまいます。

 先ほど申し上げたように、私は当初、大きな不安を抱いて師のもとに行きました。なぜなら相手は仏教徒の先生だったからです。私は心に固く誓いました。「一度だけ彼らの教えを試してみよう。しかし決して仏教徒にはならない」と。

サヤジ・ウ・バ・キンは、シーラ(道徳的行為)、サマーディ(心の統御)、パンニャー(智慧)について語られました。それはすべて良いものであり、私は「これなら実践できる」と感じましたが、それでも「仏教徒にはならない」と思っていました。

 するとサヤジは言いました。「私があなたに教えるのはヴィパッサナー、インド古来の智慧なのです」と。私は驚きました。「私の国の古代の智慧? これまで一度も聞いたことがない!」

家に帰ると、私はヒンディー語の辞書を調べました。私はヒンディー文学の熱心な読者でしたが、「ヴィパッサナー」という言葉は見つかりませんでした。サンスクリット語の辞書にもありませんでした。

何という不幸でしょう。ヴィパッサナーという言葉そのものが、この国の中で失われていたのです。しかし幸いにも、ミャンマーの人々の卓越した努力によって、それは純粋な形で守り伝えられていました。そしてこの国に再び戻ってくることができたのです。

 私がヴィパッサナー瞑想を学んでからというもの、マハーヴィーラ尊師の教えも、ギーターの言葉も、つまりダンマそのものが非常に明確に理解できるようになりました。

マハーヴィーラ尊師はこの言葉を用いています。「アヤタ・チャッキュー、ロガ・ヴィパッスィー(ayata cakkhū, loga vipassī)」――「ヴィパッスィー(内観する者)は智慧の眼を得る」と。ここで用いられる「アヤタ」とは「広く遠くまで届く視野」を意味します。

では、「ロガ」という言葉の意味をさらに理解しましょう。『ジナ・アーガマ文献』の中でこう説かれています。
「Logassa ahobhāgaṃ jāṇati, uddhaṃ bhāgaṃ jāṇati, tiriyaṃ bhāgaṃ jāṇati」
(ロガッサ・アホーバーガン・ジャーナティ、ウッダン・バーガン・ジャーナティ、ティリヤン・バーガン・ジャーナティ)

 これは、「この肉体の中に、すべての外界の世界が宿っている」という意味です。

さらにこの「ロガ」を理解すると、身体の下半分(Logassa ahobhāgaṃ)、上半分(uddhaṃ bhāgaṃ jāṇati)、身体の前後(tiriyaṃ bhāgaṃ jāṇati)を知る、つまり身体全体の中で何が起こっているかを体験的に理解する、ということです。

私たちはこれまでの人生を外の世界を知るために費やしてきました。しかしこの肉体の内側で何が起こっているのかを見たことはありません。「この身体は私ではない、私の魂ではない」と口で言いながら、実際には身体や心に強い執着を持ち続けています。「私」という意識は完全にそれに浸っているのです。
 

アヌ(原子)の流れと執着、そして実践の注意

 ヴィパッサナー瞑想を実践すると、この「アヌ(原子)の束」、すなわちアヌパリヤッタマーネ(aṇupariyaṭṭamāṇe)が絶えず変化していることが見えてきます。身体も心も、常に流動しており、一瞬ごとに生滅を繰り返し、決して静止することはありません。

 ヴィパッサナーを実践することで、この絶え間ないアヌの流れを直接体験することができます。そして私たちがどれほど深くこの肉体に執着し、「これが私だ」「これは私のものだ」と思い込んでいるかを理解するのです。しかし一体どのアヌが「私」や「私のもの」と呼べるでしょうか。アヌは常に変化しているのです。それにもかかわらず、私たちはそれに執着してしまい、変化が起これば(それは必然ですが)、大きく動揺してしまいます。

ヴィパッサナーを実践すれば、この現実に気づくことができます。しかし注意が必要です。瞑想を行っているとき、起こる現象を平静に観察する代わりに、心地よい感覚に執着してしまう危険があります。特に初心者にはよくあることです。しかしやがて理解するようになります。すなわち、快であれ不快であれ、起こるものはすべて平静に観察しなければならないということです。

 マハーヴィーラ尊師は「サンディン・ヴィディッター(sandhiṃ vidittā)」――すなわち「結び目の接点を知れ」と説かれました。ここに来る人々の中には、肘や手などの関節を観察することだと誤解する人もいます。しかし、それで何の利益があるでしょうか。私たちが体験すべき「接点」とは、欲望や嫌悪が心と身体と結びつく瞬間なのです。そしてそれを観察することで、欲望と嫌悪を超えていく道を歩むのです。

 「サンディン・ヴィディッター」、すなわち快・不快の体験が貪欲や嫌悪を生み出す接点を観る人。この人こそ強き者であり、称賛に値するのです。結び目をほどく者――「エーサ・ヴィーレ・パサンシテ、ジェ・バッデ・パディモヤイェ(Esa vīre pasaṃsite, je baddhe padimoyaye)」――と讃えられる人です。
 

人間として与えられた貴重な機会 ― 結び目を解くこと、心の汚濁を燃やし尽くすこと

 私たちを生まれながらに縛りつけている結び目を解く作業は、人間の生においてのみ可能です。人間の生は最も貴重なものです。この結び目をほどく力を自然が与えてくれているのは、人間だけなのです。動物や鳥、爬虫類や昆虫にはできません。人間だけが内面を観る力を持ち、新しい結び目をつくるパターンを止めることができます。そのとき、古い結び目は自然に解けはじめます――「キー ナン・プラーナン、ナワン・ナッティ・サンバワン(Khīṇaṃ purāṇaṃ, navaṃ natthi sambhavaṃ)」。

 これは自然の法則です。たとえば、燃えている火を消そうとするなら、薪をくべるのをやめなければなりません。新しい薪を足さなければ、残っている古い薪が燃え尽きると同時に、火は徐々に消えていきます。同じように、新たな欲望や嫌悪をつくることをやめれば、古い心の汚濁の供給が消費され、やがて欲望と嫌悪を超えた境地へと至るのです。これこそが人間の生における最高の目的です。いかにして真に心の汚濁から自由になるか、いかにして真に非暴力となるか。そのためには深い瞑想が不可欠です。

 この段階に到達した修行者は、内に蓄えられた心の汚濁の古い炎がどれほど激しい熱を持っているかを見ることができます。この内なる炎を観察することは、計り知れないほど有益です。

しかし残念なことに、インドや他の地域には、灰に覆われた火のそばに座って修行している人々がいます。けれどもそれがどう役立つのでしょうか! インドにとって大きな不幸は、人を生死の輪廻から解放できるこの尊い智慧が、ここで失われてしまったことです。そしてようやく故郷に戻ってきたにもかかわらず、それが十分に受け入れられないのは、まさにこのインドにおける真の霊性だからなのです。
 

大聖者たちの言葉の忘却 ― 内外は同じ

 私たちは偉大な聖者たちの言葉を忘れてしまいました。マハーヴィーラ尊師はこう説かれました。

「ジャハー・アント、タハー・バーイム、ジャハー・バーイム、タハー・アント(jahā anto, tahā bāhiṃ, jahā bāhiṃ, tahā anto)」
――すなわち「内にあるものは外にもあり、外にあるものは内にもある」。

この宇宙のあらゆる瞬間、あらゆるアヌ(原子)は変化し続けています。身体や心のあらゆるアヌも、同じように刻々と変化しています。盲目的に受け入れる必要はありません。

さらに尊師はこうも説かれました。身体全体を観察せよ、と。
「アント・アント・プーティデーハンタラーニ(anto anto pūtidehantarāṇi)、プドゥホ・ヴィサワターミン(pudho visavatāiṃ)」
――すなわち「内に積もった汚れを、すべて取り除け。蓄積されたアーサヴァ(āsava、心の汚れ)を払い去れ」。

このように、すべての宗教伝統の中で説かれている有益な教えは、時の流れの中で失われ、言葉だけが残ってしまいました。その本当の意味は忘れられたのです。

今やダンマは再び戻り、多くの人に計り知れない利益をもたらしています。人が自らにどれほど真剣に取り組むかに応じて、心に蓄えられてきた怒り、恐怖、欲望などの心の汚濁は減少していきます。

しかし私たちはしばしば、こういう場面に出会います。他の人がこの教えから利益を得ているのを見ながらも、それを試そうとしない人々です。彼らは依然として「これはバウッダ・ダンマ(仏教のダンマ)だ」と考えているのです。私はその人たちに大きな憐れみを感じます。なぜなら、私自身もかつて同じ誤解に囚われていたからです。
 

ギーターにおける平衡した智慧 ― スティタプラグニャ

 『ギーター』は、平衡した智慧 ― スティタプラグニャ(sthitaprajña)について説いています。恐怖や怒りなどを超え、心を揺るがせない智慧の状態です。

私の師は私にこう告げました。「私はあなたに三つのことだけを教える。シーラ(道徳律)、サマーディ(心の統御)、パンニャー(智慧)。それ以外は教えない。なぜなら、ブッダが説いたことはすべて、この三つに含まれているからだ」と。

師はさらに言いました。「十日間だけ試してみなさい」と。私は師のもとに赴き、そこで「ダンマをダンマとして」見ました。それはバウッダでもヒンドゥーでもムスリムでもありませんでした。ダンマを形容するこうした形容詞は、ダンマを弱めてしまいます。形容詞が主となり、ダンマが従になってしまうからです。
 

宗派名の起源とダンマの変質

 センターで古代文献を調査していたとき、次のことが分かりました。マハーヴィーラ尊師が入滅されてから1,500年後にはじめて「ジャイナ」という言葉が使われるようになったということです。同じように、ブッダの入滅から500〜700年のあいだ、どの文献にも「バラモン」という言葉は見つかりませんでした。

 ブッダもマハーヴィーラも、そのような言葉は使っていません。実際、「ヒンドゥー」という言葉さえ、長い間コミュニティの自己呼称としては使われていませんでした。宗派主義が始まると、それぞれの宗派が自らの哲学や儀式に名前をつけ、それが目立つようになりました。儀式が重視されるようになると、ダンマは空しい読誦だけに残されてしまったのです。

 しかし今、真理に目覚めるにつれて、「ダンマこそが本質であり、生活の中に生かさなければならない」と気づくでしょう。
 

ダンマの普遍性

「ダンマはヒンドゥー教でもバラモン教でもなく、モスリム教でもジャイナ教でもない。」
「ダンマとは心の浄化であり、平安であり、幸せであり、静けさです。」

ダンマはすべての人に属するものであり、いかなる共同体や宗派にも属するものではありません。
 

受講のお願い(10日間を与えてください)

最後に、今日どうしてもみなさまにお伝えしたいことがあります。

純粋なダンマの伝統においては、師が自ら寄付を求めることは決してありません。この規律は破られてはなりません。しかし、私は今ここで、この伝統を破ることになるかもしれないですが、たとえ道徳的によくないとしても、私は皆さまに一つお願いをいたします。

 それは金銭ではありません。どうかみなさまの貴重な時間から十日間を私にください。十日間を、ご自身のために、ご自身の幸せと解放のために捧げてください。そしてその後、誰の目には見えないほどの多くの人が、皆さまを通してこの解放の道に入り、恩恵を受けるかもしれません。

どうか今日この集まりに来られたみなさまが それぞれの人生から十日間を日常から取り分けて 

ダンマの道を歩み 最高の幸せと解放のために成長されますように

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