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वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み成し遂げてください

​ヴィパッサナー瞑想の進歩

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

 ブッダは最高の悟りを得た後、「ダンマの法輪を回す」最初の説法を行い、その教えはのちにヴィパッサナーとして発展しました。この実践法は多くの人に大きな恩恵をもたらしました。

 ブッダの説法の目的は、苦しみからの解放にありました。ブッダは、そのために次の三つの真理を説きました。苦の真理、苦の根本原因、苦しみを滅するための八つの正しい道です。この教えは「ヴィパッサナー」という実践法として広まりました。
 多くの人がこの道を歩めるよう、ブッダは悟りを開いた最初の60人の弟子たちを各地へ派遣し、人びとにヴィパッサナーを伝えるよう導きました。

 ダンマの伝道に出た弟子たちは、訪れる先々でヴィパッサナーを伝えました。実践を通じて恩恵を感じる人が増えるにつれ、さらに多くの人が興味を持つようになります。60人の弟子たちは、習得した人びとにも他者に伝えるよう促し、この流れが続いたことで、ヴィパッサナーの実践は北インド全域に広がりました。
 

 当時のインドにはさまざまな宗派や信仰体系がありましたが、ヴィパッサナーは宗教や思想に関係なく受け入れられました。なぜなら、この瞑想法は、特定の信仰に基づくものではなく、誰もが実践できる普遍的な方法だったからです。

 八つの聖なる正しい道(The Noble Eightfold Path)は、次の三つの要素から成り立っています。


道徳律(シーラ)に含まれる要素
正しい言葉 
正しい行動 
正しい生活 

集中(サマーディ)に含まれる要素
正しい努力 
正しい気づき
正しい集中 

智慧(パンニャー)に含まれる要素
正しい思い 
正しい理解 


 ブッダの時代に北インドで広まったヴィパッサナーは、アショーカ王の時代にはインド全土、さらにはインド国外へも伝わりました。しかし、アショーカ王の死後、次第に衰退し、やがてインドでは完全に失われます。

 一方で、この瞑想法は隣国ミャンマー(旧:ビルマ)に伝わり、そこで師から弟子へと代々純粋な形で受け継がれました。そして約43年前、再びインドに戻り、この技法は再びインドに戻ってきています。


 ヴィパッサナー瞑想を学ぶためには、新しい生徒は10日間のコースに参加する必要があります。このコースでは、八つの正しい道を構成するシーラ(sīla)、サマーディ(samādhi)、パンニャ(paññā)を実践します。この八つの正しい道において、シーラはその基盤です。シーラを実践することなくしては、ヴィパッサナーの利益を誰も得ることはできません。また、シーラの実践がなければ、正しい集中や正しい智慧を得ることもできません。日常生活においては、シーラを完全に実践することが難しいかもしれません。しかし、コースに参加しているあいだは、少なくとも10日間、途切れることなくシーラを実践することが可能です。コース中は、完全な沈黙を保ち、外界から完全に隔離された環境に身を置き、瞑想に専念します。そのような状況では、戒律を破るような理由はまったく見当たりません。このようにして、清らかなシーラを土台として、正しい集中に向かって歩みはじめるのです。

 

 サマーディを実践するにあたって、自分自身の身体と心に関わる現実を、瞑想の対象とする必要があります。八つの正しい道の目的は、自己の内なる現実を、粗いものから微細なものへ、そしてさらにより微細なものへと、段階的に体験していくことにあります。このことによって、修行者は、自然の普遍的な法則を理解する力を育むことができるのです。このため、最初に与えられる正しい集中の対象としては、自然に出入りする呼吸が選ばれています。なぜなら、呼吸は自分自身の身体と心に直接関わるものだからです。この技法においてつねに大切なのは、「自分自身に関わる現実を、自らのレベルで体験する」ということです。そこに、いかなる想像や盲信、盲目的な信仰を重ねることは決してあってはなりません。あるのは、ただ呼吸への気づきのみです。そこに、言葉やイメージなどを混ぜてはなりません。普通で自然な呼吸こそが、何よりも真実なのです。ここから先の実践は、つくられたものでも、想像されたものでも、押しつけられたものでもなく、「あるがままの真実」だけに基づいて行われます。ですから、最初から瞑想の対象は、ふつうで自然な呼吸のみでなければなりません。これは、呼吸の運動ではまったくありません。プラーナーヤーマにしてはならないのです。プラーナーヤーマには身体的な効果があるかもしれませんが、究極の真理を体得するためには適していません。なぜなら、プラーナーヤーマは意図的な努力を伴うものであり、自然に生じるものではないからです。つまり、それは人工的であり自然なものではなく、作られた現実なのです。したがって、正しい集中を実践するためには、対象は自然に出入りする、普通で自然な呼吸でなければなりません。その呼吸は、左の鼻孔から出入りするかもしれず、右の鼻孔からかもしれません。粗くても、微細でも、長くても短くても構いません。意識がそれ以外へ逸れてしまったときには、再び、普通で自然な呼吸に戻すよう努めます。このようにして、ふつうの呼吸に気づき続ける努力を重ねていくと、鼻孔の外側と内側の縁において、呼吸の触れる感覚が感じられるようになります。さらに修行が進むと、その場所において、何らかの感覚を体験するようになります。古い時代においては、この感覚を「ヴェーダナー(vedanā)」と呼びました。
この言葉の本来の意味は「体験すること」でした。
しかし、現代では「ヴェーダナー」の意味が「痛み」だけに限定されて理解されてしまうようになっています。そのため、混乱を避ける目的で、現在では代わりに「サンヴェーダナー(samvedanā)」という言葉が用いられるようになってきています。呼び方はどうあれ、心がしばらくのあいだ、その場所に現れたどのような感覚にもゆらがずに気づき続けているとき、正しい集中のはじまりが生じているのです。この正しい集中において重要なのは、実際に体験されている真実以外のいかなる対象も、そこに加えないということです。そして、このような正しい集中に必要な初期の能力が培われてから、はじめてパンニャの実践が始まるのです。

 パンニャ、すなわち智慧には、三つの種類があります。一つ目は、「スッタマヤ・パンニャ(sutamayī paññā)」と呼ばれるもので、他人から聞いたり、本を読んだりすることによって得られる洞察です。二つ目は「チンターマヤ・パンニャ(cintāmayī paññā)」と呼ばれるもので、聞いたり読んだりした内容について思索し、分析することによって得られる洞察です。これは、思考と分析によって得られる智慧とも言えます。そして三つ目は、「バーヴァナーマヤ・パンニャ(bhāvanāmayī paññā)」と呼ばれ、自らの体験によって得られる智慧です。

 このうち、スッタマヤ・パンニャとチンターマヤー・パンニャは、バーヴァナーマヤ・パンニャを得るための「動機づけ」や「きっかけ」としては役立ちます。けれども、実際の意味でのパンニャとは言えません。直接体験に基づく洞察こそが、真のパンニャと呼ばれるのです。聞いたことや読んだこと、あるいはそれについて考えたことによって得られる洞察は、それがどれほど深いものであっても、他人の経験に基づいた「間接的な知識」であり、自分自身の直接体験ではありません。したがって、それは「間接的な知識」であって、真の意味でのパンニャではないのです。ほんとうのパンニャとは、自分自身の直接体験によって得られるものだけです。ヴィパッサナーを実践し、修行が進んでいくと、全身を頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、はっきりと区別して体験できるようになります。その過程で明らかになる真実とは、一見とても「固体」に見えるこの身体は、実のところ「固体」ではなく、常に振動している微細な粒子の集まりにすぎないという事実です。それらの粒子は、まるで波のように、絶えず生じては消えています。ヴィパッサナーを通してこの現実を実感し続けると、さらに多くの現実が、くっきりと明らかに現れてきます。たとえば、目、耳、鼻、舌、皮膚、心という六つの感覚器官に、色、音、香り、味、触れた感覚、思考といった対象が接触すると、私たちは必ず「感覚(サンヴェーダナー)」を体験します。そして、その感覚を「快」「不快」「どちらでもない」と判断して、それに対して「渇愛」や「嫌悪」を生み出して反応してしまいます。このようなプロセスを繰り返すことによって、私たちは自らの苦しみをつくり出し、増幅させ続けているのです。

 ヴィパッサナーを実践するなかで、一瞬一瞬に現れてくる現実を、そのままのかたちで観察しながら、平静に保ちつづけることを学びます。
何の反応もせずにいるとき、苦しみを生み出し増やしていくサイクルは、自ずと壊れていきます。
快い感覚や不快な感覚に対して、欲や嫌悪をもって反応するという行動のパターンは、平静さに確立された状態を保つ実践を重ねることで、次第に弱まっていきます。
このようにして、心のなかにある不純な行動パターンが弱まると、その分だけ苦しみも減っていきます。欲や嫌悪によって反応するという習慣が弱くなるほど、心はより純粋になります。
純粋な心には、本来そなわっている自然で正常な性質として、慈しみ(メッター)、思いやり(カルナー)、他者の喜びをともに喜ぶ気持ち(ムディター)が満ちてきます。そうなると、その人は、自分自身のためにも、まわりのすべての人々のためにも、平和と幸福の雰囲気をつくりだしていくようになるのです。現実をそのままに、つねに観察し体験していくことで、自然の普遍的な法則が、より明確にあらわれてきます。心に何らかの汚濁(アスッカ)が生じたとたんに、自然はすぐに反応し、その人は苦しむことになります。
反対に、心がその汚れから自由になれば、その瞬間からすぐに平安と幸福を味わうようになります。このような自然の法則は、時代を超えたものであり、あらゆる場所、あらゆる人々に、時を問わず、例外なく等しく適用されるものです。それらの法則は、誰かを呪ったり、誰かに恩恵を与えたりすることはありません。どのような種をまいたかによって、どのような果実を得るかが決まります。行いという種に応じて、その行いによって果実も決まってくるのです。

 身体は固体ではなく、無数の極微粒子が常に振動し、絶えず生起し、消滅している
苦しみは「渇望(欲望)」と「嫌悪(怒り)」によって生じる
心がこれらの感情に反応しなくなると、自然に平和と幸福が訪れる

この瞑想は、特定の宗教に属するものではなく、すべての人が実践できる普遍的な心の訓練です。


 ヴィパッサナーを続けることで、私たちは瞬間ごとの現実を観察し、反応せずに受け入れることを学びます。そして、苦しみを生む「渇望」と「嫌悪」の習慣を弱め、心の純粋さを取り戻すことができます。その結果、心が慈愛や思いやりに満ち、個人の幸福だけでなく、社会全体の平和と調和にも貢献する ようになります。
 

 ブッダの時代から2000年以上が経った今、ヴィパッサナーは再び純粋な形で復活し、インドをはじめ世界中に広がっています。その目的は、すべての人々の福祉、平和、幸福のためです。

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