top of page
banner.png

वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
「すべてのものは無常です。精進し成就させてください。」

​カンマとヴェーダナーヌパッサナー

書籍・CD・DVD: 書籍


リリー・デ・シルヴァ著

 

 『アングッタラ・ニカーヤ』¹によれば、カンマとは「意図(チェータナー)」のことである(「比丘たちよ、わたしは意図をカンマと呼ぶ」)。なぜなら、意図によって身体・言葉・心を通して行為がなされるからである(意図して、身体・言葉・心によってカンマをつくる)。「サンカッパ」もまた意図を意味する言葉であり、意図と思考が「感覚(ヴェーダナー)」の中で収束すると説かれている²点は注目に値する。
 

 注釈書³では次のように説明されている:「サンカッパヴィタッカ」とは、サンカッパ(意図)となったヴィタッカ(思考)を指す。つまり、思考が意図へと変化したものである。実際、あらゆる心所(心に関する現象)は感覚へと変換されると説かれている⁴。注釈書⁵では「サッベ・ダンマー(すべての法)」を「五蘊(パンチャッカンダ)」、すなわち人間を構成する心身の集合体として解釈する。すると、「五蘊が感覚の中に収束する」との意味になる。人間の全存在は感覚によって脈動しており、それなしには人間はただの植物にすぎない。したがって、感覚はきわめて重要である。

『ニダーナ相応』⁶によれば、身体全体は過去のカンマの物質的表現である。すなわち、「この身体はあなたのものでも他人のものでもなく、過去のカンマによって構成され、意図され、感受できるものとして現れたものである」(「この身体はあなたのものでも他の誰のものでもない。これは古いカンマによって構成され、意図され、感受できるものとして見るべきである」)。『六処相応』⁷では、感覚器官もまた古いカンマによって構成されたものであると説かれている(「眼は古いカンマによって構成され、意図され、感受できるものとして見るべきである」等々)。

 我々が得た身体には、特定の強さや弱さ、傾向があるが、それは過去のカンマのエネルギーがそれにふさわしい形で身体を形成した結果である。同様に、感覚器官の感受性や潜在力も、過去のカンマによって決定されている。我々は、カンマによる遺産と一致するような遺伝的遺産を受け取るようである。

 仏典⁸には繰り返し、「衆生はカンマを所有し、カンマの相続者であり、カンマから生じ、カンマと縁り、カンマを依り処とする。カンマは衆生を、すなわち下劣と高貴に分ける」(「カンマッサカ― サッター、カンマダーヤーダー、カンマヨーニ―、カンマバンドゥー、カンマパティサラナー。カンマム サッテ ヴィバジャティ、ヤディダン ヒーナッパンニータターヤ」)とある。カンマは無数の可能性の中から、自己のエネルギーを最もよく表現できる遺伝的パターンを選択するようである。したがって、カンマ的エネルギーは感受的な物質へと転化され、それがふさわしい感覚を生じさせるのだと結論づけることができる。

 古い(プーラーナ)カンマがあるように、新しい(ナヴァ)カンマも存在する⁹。新しいカンマとは、現在ここで我々が行っている意図的な身体的・言語的・精神的行為のことである。重要なのは、カンマは消滅しないということである¹⁰。なぜなら、カンマは感受的な物質を絶えず構築し続けるからである。受胎時に古いカンマによって始まった感受的物質の構築過程は、新しいカンマによって維持される。換言すれば、それは精神的エネルギーが感受的物質へと変換されていく過程である。
 

 カンマは「ヴィパーカ(果)」を生じることによって償われる¹¹。ヴィパーカとは、ふさわしい快または苦の感覚を体験することである(「彼はそこにおいて、苦しく、鋭く、痛ましい感覚を味わう」等々)。カンマには、異なる領域で体験されるべきものがある¹²。すなわち、地獄界(ニラヤヴェーダニーヤ)、畜生界(ティラッチャーナヨーニ)、餓鬼界(ペッティヴィサヤ)、人間界(マヌッサローカ)、天界(デーヴァローカ)で体験されるべきカンマである。

しかし、ヴィパーカ―すなわち快または苦の感覚―を体験する過程において、もし人が貪欲・瞋恚・妄想によって反応するなら、その瞬間にさらに新たなカンマが生じ、それが再び感受的物質に変換され、さらなる感覚を生じさせる。こうして、悪循環が確立される。これがサンサーラ(輪廻)の循環的プロセスである。

 この循環的プロセスを突破したいと望むならば、カンマの消滅(カンマッカヤ)を達成しなければならない。そのためには、カンマの根本原因とされる貪欲・瞋恚・妄想を滅しなければならない¹³。

 『クックラヴァティカ・スッタ』¹⁴によれば、黒(悪)でも白(善)でもないカンマがあり、それは黒でも白でもない果を生む。こうしたカンマは、カンマの消滅に資するものである(「黒でも白でもない、黒白の果をもたらさないカンマがあり、それはカンマの消滅に向かう」)。これは、善・悪・混合したカンマを除去しようとする意図(チェータナー)として説明されている。

 では、この意図はどうすれば実際の行動に変換されるのだろうか。『アングッタラ・ニカーヤ』¹⁵によれば、道徳的な戒律(シーラ)を守り、新たなカンマをつくらず、古いカンマを体験することによって滅していくべきである。これは「現にここで」「今すぐに」「直接体験可能で」「導きに従いやすく」「賢者によって個人的に確かめられる」ものとして、カンマの消滅であると説かれている(「新たなカンマをつくらず、古いカンマを触れて触れて消滅させる。これは現見的、時を選ばず、来たれ見よ、導きに応じ、賢者によって個人的に知るべきものである」)。

ここで最も重要な語句は「フッサ・フッサ・ヴィヤンティカローティ」である。これは「触れて触れて消滅させる」と訳される。

このカンマの消滅のプロセスは、『ドヴェーヤータヌパッサナー・スッタ』¹⁶の以下の偈頌において、さらに明瞭に説明されている:

 

Sukham va yadi va dukkham, adukkhamasukham saha;
ajjhattanca bahiddha ca, yam kinci atthi veditam.
Etam dukkhanti natvana, mosadhammam palokinam;
phussa phussa vayam passam, evam tattha vijanati;
vedananam khaya bhikkhu, nicchato parinibbuto ti.

訳:

快・苦・不苦不楽、内的・外的を問わず、
あらゆる感覚が存在するならば、
それらすべてが苦であり、欺くものであり、壊れるものであると知るべきである。
触れて触れて、それらが消滅していくのを観察し、
かくして、それらに対して離貪となる。
かくして感覚が滅することで、比丘は貪りを離れ、涅槃に至る。

注釈書¹⁷は、この偈の実践的側面を次のように説明している:

「フッサ・フッサ」とは、生滅を知りながら繰り返し感覚を体験することである。
「ヴィヤン・パッサン」とは、最後における滅(破壊)を見ることである。
「ヴェーダナーナン・カヤ」とは、それ以降、道智(マッガニャーナ)によって、カンマと結びついた感覚を滅することを意味する。

 

 「フッサ・フッサ・ヴィヤン・パッサン(触れて触れて、消滅を見る)」の実践的側面を考察するならば、この表現は明らかに「ヴェーダナー観(ヴェーダナーヌパッサナー)」を指していることが分かる。『サティパッターナ・スッタ』¹⁸によれば、人は身体に現れるさまざまな感覚が生じるたびに、それに気づいていなければならない。人は感覚の「生起(サムッダヤ・ダンマーヌパッシー)」と「消滅(ヴァヤ・ダンマーヌパッシー)」の両方を観察しなければならない。

これこそ、感覚に反応することなく、それを観るという行為である。通常、我々は快の感覚に耽溺し、それに執着する。なぜなら快の感覚には欲(ラーガ)が根ざしているからである¹⁹。逆に、苦の感覚に対しては嫌悪や反発の反応を示す。なぜなら苦の感覚には瞋(パティガ)が根ざしているからである。また、不快でも快でもない中立的な感覚に対しては無知(アヴィッジャー)が根ざしており、それにすら気づいていない²⁰。
 

 したがって、通常我々は感覚に対して、貪・瞋・痴の三つの根本煩悩をもって反応してしまう。こうした反応を通じて、カンマが新たに積み重ねられていくのである。

しかし、ヴェーダナー観を用いて感覚の生起と消滅を、反応することなく観察するならば、過去のカンマが消滅し、新しいカンマが積まれなくなる。

 前述のとおり、カンマは感受的物質に転換され、それが適切な感覚を生じさせる。これは「生存の輪(バヴァ・チャッカ)」が機能している状態である。対して、ヴェーダナー観はその逆であり、個人の内部で「法の輪(ダンマ・チャッカ)」を回すものである。

 人が感覚をサティ(念)をもって観察すれば、カンマを生じさせることなく、感覚は消滅する。これこそが「フッサ・フッサ・ヴィヤンティカローティ(触れて触れて消滅させる)」の意味するところである。

これはまさに、「マインドフルネスが心理的レーザービームのように作用し、通常はヴィパーカを生じることでしか消滅しないカンマを直接消滅させる」ことを意味している。この技術こそが、感覚を体験しながらも執着しない術なのである²¹。

 このようにして感覚を消滅させた比丘は、涅槃という安らぎに達する²²。

ここで強調しておかなければならないのは、「感覚の滅(ヴェーダナーナン・カヤ)」とは、すべての感覚が完全に消滅することを意味しないということである。

『ヴェーダナー相応』²³によれば、感覚には八種類がある:

胆汁(ピッタ)によるもの

痰(セーマ)によるもの

風(ヴァータ)によるもの

それらの混合(サンニパータ)によるもの

気候の変化(ウトゥパリナーマ)によるもの

相性の悪いものの併用(ヴィサマパリハーラ)によるもの(例:相性の悪い食物の組み合わせ)

外的な攻撃や傷害(オーパッカミカ)によるもの

カンマの報いとして生じるもの(カンマヴィパーカジャニー・ヴェーダナ)

このうち、ヴェーダナー観によって滅されるのは、8番目の「カンマの結果として生じる感覚」のみである。他の7種の感覚は機能し続ける。

 

 すべてのカンマが完全に根絶されなければ阿羅漢果(アラハンシップ)に達することができない、というわけではないように思われる。阿羅漢となっても、いくらかのカンマが残存している可能性があることは、『アングリマーラ』²⁴の正典中のエピソードから推察できる。

 数々の殺人を犯したアングリマーラは、阿羅漢となった後でも、投げられていない石や棒が偶然当たるという苦しみを経験していた。ときには、彼は托鉢の帰りに頭に傷を負い、衣が裂けて帰ってきたこともあった。これに対し、ブッダは彼に「これは過去に行った悪業の現在の果であり、もし阿羅漢になっていなければ、地獄で長きにわたり苦しまねばならなかっただろう」と諭している。

 ここから推察できるのは、ヴェーダナー観によってカンマのエネルギーが十分に消滅され、再生(再誕)を引き起こす力がもはや残っていない状態になると、「もはや生はない」という確信(知識)が生起する、ということである²⁵。これこそが解脱体験における最も重要な確信である。

 なお、「カンマの消滅(カンマッカヤ)」という表現は、阿羅漢果を表す定型句の中には登場しないが、他の場面においてもこの語の使用は非常に限られている²⁶。それに対して、「欲の消滅(ラーガッカヤ)」「貪りの消滅(ローバッカヤ)」「怒りの消滅(ドーサッカヤ)」「無知の消滅(モーハッカヤ)」といった語句は、経典中で頻繁に登場する。

カンマの消滅が言及される数少ない例は、主にニガンタ・ナータプッタ(ジャイナ教の祖)による教義の文脈である。彼は「苦の滅(ドゥッカッカヤ)」を達成するために「カンマの消滅(カンマッカヤ)」を目指したとされる²⁷。

しかし、カンマは観察も確認もできないものである。したがって、ブッダはジャイナ教の弟子たちに対し、次のように問いかけた。「あなた方は、過去に悪いカンマを行ったと知っているか? あなた方の苦しみのうち、修行によってどれだけが減ったかを知っているか? これから減るべき苦しみがどれほどあるかを知っているか?」――しかし、彼らはいずれも答えることができなかった。

 それに対し、ブッダは弟子たちに、カンマではなく、貪・瞋・痴といった「悪しき心の状態(アクサラ・チッタ)」を根絶すべきであると教えた。なぜなら、こうした心の状態は観察・検証が可能であり、また新たなカンマを生じさせる原因でもあるからである。

 これらの煩悩を消滅させる、非常に効果的な方法のひとつが、ヴェーダナー観の実践である。この実践をある程度継続すれば、弟子自身が、自己の中の悪しき心の傾向が減少していることに気づくようになる。このことが、カンマに対して衰退効果(減殺作用)をもたらすため、ヴェーダナー観はカンマの消滅をもたらす極めて効果的な手段であると結論づけられる。

 また、カンマとサンカーラ(形成作用)には密接な関係がある。サンカーラは心理的側面をもつ、より厳密な術語である。現代に伝わるヴィパッサナーの伝統では、深層にあるサンカーラがヴェーダナー観の実践を通じて表面化し、消滅していくとされている。

 『ドヴェーヤータヌパッサナー・スッタ』²⁸にも、同様の見解が表現されている。「サンカーラの滅によって、苦しみは生じない」。

 先ほど述べたように、感覚そのものは多種多様です。その様子は、空を吹き渡るさまざまな風や、公の休憩所に現れてはしばらく滞在し、また去っていく旅人のようだ、とも例えられています。(※脚注:2)

​​

 一方で、ほかの経典ではブッダがもっと多くの種類のヴェーダナーについて語っている場面もあります。これは、それぞれの文脈や相手に応じて解説がなされたためです。たとえば、『サンユッタ・ニカーヤ(Samyutta Nikaya)』にある「パンチャカンガ・スッタ(Pancakanga Sutta)」(※脚注:3)では、大工のパンチャカンガと尊者ウダイ(Udayi)の対話が記録されています。パンチャカンガは「ブッダは快(スッカ)と苦(ドゥッカ)の2種類の感覚しか説いていない」と主張します。しかし、尊者ウダイは「ブッダは快、苦、そしてアドゥッカマスッカの3種類を説いている」と言います。アーナンダ(Ananda)がブッダにこの件を伝えたとき、ブッダは「2つだけではなく3つのときもあるし、ときには5つ、6つ、18、36、さらには108というふうに、さまざまな分け方をしてきた」と答えました。(※脚注:4) ただしブッダは、「数字にとらわれるのではなく、あくまでその説法の文脈や目的を理解しなければ、本当の意味を見失ってしまい、無駄な議論に陥ってしまう」とも述べています。

 ブッダがあるときは「ヴェーダナーには身体的(カーヤika vedana)と心的(チェータシカ cetasika vedana)の2種類がある」と言うことがあります。しかし、この文脈を十分に理解しない人は、「身体に起こる感覚を心なしに体だけで感じるなんてことがあり得るのか」と疑問に思うかもしれません。実際には、身体に生じた感覚は体そのものが感じているのではなく、必ず「心」が感知しています。ですから、どんな感覚であれ、体と心の両方がそろって初めて感じられるのです。それにもかかわらず、ブッダが「身体的ヴェーダナー」と「心的ヴェーダナー」を区別して説くのはなぜでしょうか。ブッダは、「自分が2種類のヴェーダナーについて語るときは、その説法のなかで特定のポイントを明らかにするときである」と言っています。

 つまり、体に起こる感覚に対して「心がかき乱されない状態」で感じるとき、それを「身体的(カーヤika)な感覚」と呼ぶ、ということです。これは、アリヤサーヴァカ(ariyasavaka/高い境地に達した弟子)の心の状態を指しています。ところが、一般の人に同じ感覚が起こると、心は動揺し乱されてしまいます。ここでブッダは、この違いを踏まえて、ヴェーダナーを「カーヤika(身体的)」と「チェータシカ(心的)」の2つに分けて説かれたのです。よく訓練されたアリヤサーヴァカは、ヴェーダナーのアニッチャ(無常)性を心得ており、感覚に縛られず(ヴィサミュッタ visamyutta)にいられます。しかし、普通の人はヴェーダナーの真の性質を知らず、心が乱れて感覚に囚われ(サミュット samyutta)てしまいます。ブッダはこの違いを、「無知ゆえに下劣な心的状態か、それとも常にアニッチャ(生起と消滅)を正しく理解して注意深く観察しているか」という観点で説明されます。後者は、サトー・サンパジャーノ(sato sampajano/気づきと正しい理解を持つ)という状態なのです。(※脚注:5)

 また、「パンチャカンガ・スッタ」の中でブッダは、感覚を5種類のスッカ(快)のヴェーダナーとして説明する場面があります。これは、五感(眼・耳・鼻・舌・体)との接触による快感(パンチャ・カーマグナ panca kamaguna)を取り上げたものです。ブッダは、「一般の人が感じる快(カーマスッカ kamasukha)は低いレベルであり、瞑想者が第一禅定(パタマ・ジャーナ pathama jhana)、第二禅定(ドゥティヤ・ジャーナ dutiya jhana)、第三禅定(タティヤ・ジャーナ tatiya jhana)、第四禅定(チャトゥッタ・ジャーナ catuttha jhana)で得る快とは質がまったく違う」と説きます。これら4つの禅定のスッカ(快)にも段階的な深まりがあり、さらに「空無辺処定(アーカーサーナンチャーヤタナ akasanancayatana/第五禅定)」で得られるスッカは、先の4段階よりも優れています。その次の「識無辺処定(ヴィンニャーナーナンチャーヤタナ vinnananancayatana/第六禅定)」、「無所有処定(アキンチャンニャーヤタナ akincannayatana/第七禅定)」のスッカはさらに高く、第八禅定と呼ばれる「非想非非想処(ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ nevasannanasannayatana)」で得られるスッカは、さらに比べ物にならないほど高いのです。しかし、これらですら「最高のスッカ(パラマン・スッカ paramam sukham)」とは呼べません。

 興味深いことに、ブッダはまだ悟りを開く前(菩薩 bodhisattaの頃)に、多くの聖者や修行者を訪ね、さまざまな苦行や瞑想法を学びました。その中でも著名だったのが、アーラーラ・カーラーマ(Alara Kalama)とウッダカ・ラーマプッタ(Uddaka Ramaputta)です。まずアーラーラ・カーラーマのもとを訪れ、第七禅定(無所有処定 akincannayatana samadhi)にすぐさま達しましたが、これが最終的な解脱ではないと感じ、次にウッダカ・ラーマプッタのもとへ行きました。そこでは第八禅定(非想非非想処定 nevasannanasannayatana)を修得しましたが、これも解脱の究極ではないと確信し、彼のもとを去ったのです。(※脚注:7) その後、長い間厳しい苦行をして身体を痛めつけた末、現在のブッダガヤにたどり着き、大樹の下に座って最終的に悟りの境地に達しました。ブッダはこのときの最高の禅定状態を「サンニャーヴェーダイト・ニローダ・サマッパッティ(sanna-vedayita-nirodha samapatti)」と呼びました。これは、名色(ナーーマ・ルーパ nama-rupa)を超え、ヴェーダナー(感覚)とサンニャー(知覚)をも超えたところであり、「永遠のスッカ」、つまり世俗の快感を超えた最高の幸福を味わう境地です。この段階まで達したヴィパッサナー瞑想者は、第八禅定をさらに超え、サンニャーとヴェーダナーの消滅(ニローダ nirodha)を体験します。ブッダは「ヴェーダナーとサンニャーが滅尽する境地を、アニッチャへの浄らかな智慧によって体験し、そこに到達した者は煩悩(アーサヴァ asava)を断じ、世間から自由になる」と説きました。(※脚注:8)

 ブッダは、この「サンニャーヴェーダイト・ニローダ・サマッパッティ」が「マーラ(死神・煩悩の擬人化)の支配を超える最高の境地」だとして、最初の5人の弟子(パンチャヴァッギヤ・ビックhu)に教えました。(※脚注:9) これが、瞑想者が体験する究極の「パラマン・スッカ(paramam sukham/最高の幸福)」であり、「サンティ・ヴァラパダン(santi varapadam/最上の平安)」というものです。

 当時使われていた日常言語には、禅定の深い段階で体験されるスッカを表す正確な言葉がありませんでした。そのため、ブッダは一般的な「スッカ」という語を繰り返し使っています。しかし実際には、その「スッカ(快)」には、段階や深まりによって大きな違いがあるのです。それは実際に実践してみて初めて理解できるものでした。

ブッダは、「五根(ごこん indriya/五つの中心的な力)」に関連づけて、ヴェーダナーを以下の5つに説明したこともあります。

スッキンドリヤ(sukhindriya/肉体的快)

ドゥッキンドリヤ(dukkhindriya/肉体的苦)

ソーマナッシンドリヤ(somanassindriya/心の喜び)

ドーマナッシンドリヤ(domanassindriya/心の悲しみ)

ウペッキンドリヤ(upekkhindriya/平静・中立の感覚)(※脚注:10)

また、「六つの感覚の門(六処 rokusho)」を通じて起こるヴェーダナーとして6種類に分けるときもあります。6種類とは以下のとおりです。

チャッカフソータ(cakkhusamphassaja vedana/目の接触による感覚)

ソータサンフソーヤ(sotasamphassaja vedana/耳の接触による感覚)

ガーナサンフゴーヤ(ghanasamphassaja vedana/鼻の接触による感覚)

ジーヴハサンフゴーヤ(jivhasamphassaja vedana/舌の接触による感覚)

カーヤサンフゴーヤ(kayasamphassaja vedana/身体の接触による感覚)

マノサンフゴーヤ(manosamphassaja vedana/心の接触による感覚)

 このように、ヴェーダナーはどのような状況・文脈で語られているかをまず理解する必要があります。(※脚注:11)

さらに、スッカ・ドゥッカ・ウペッカー(平静)などに、心の働きである喜びや悲しみ、中立の要素を組み合わせると、「18種類のヴェーダナー」という数え方にもなります。

ある場合には、次のように「36種類」と言うときもあります。

家(在家)に根ざす喜び(ゲーハシターニ somanassa)6種

出家(離欲)に根ざす喜び(ネッカンマシターニ somanassa)6種

家に根ざす悲しみ(ゲーハシターニ domanassa)6種

出家に根ざす悲しみ(ネッカンマシターニ domanassa)6種

家に根ざす中立(ゲーハシターニ upekkha)6種

出家に根ざす中立(ネッカンマシターニ upekkha)6種

 ここで言う「出家に根ざす(ネッカンマシターニ)」というのは、実際に僧侶の衣を着ているかどうかではなく、心が真に離欲(欲を離れた境地)している状態を指します。たとえ在家であっても、瞑想を深めて高い境地に到達していれば、真の離欲を得ていると言えます。反対に、形の上では出家していても、欲や執着で乱されている状態なら、心はまだ「家(在家)」にいると同じということです。

『ダンマパダ(Dhammapada)』には、次の有名な偈(げ)があります。(※脚注:12)

「たとえ華やかに着飾っていても、
もし心静かに暮らし、欲望を克服し、感覚を制御し、
四聖道(しせいどう)に確信を持ち、完全に清らかで、
すべての生き物に対して害意の棒を捨てているならば、
その人はバラモンであり、サマナであり、ビック(僧)である。」

 たとえば、チッタ・ガハパティ(Citta Gahapati)は一生在家のままでしたが、ダンマを深く理解・実践し、「アナーガーミ(anagami/不還者)」の境地に至りました。これは、多くの僧侶よりも高い境地でした。そのため「ダンマ(法)を説くのに卓越している人」と評されたのです。(※脚注:13) 『サンユッタ・ニカーヤ』の「アチェラ・カッサパ・スッタ(Acelakassapa Sutta)」(※脚注:14)では、チッタ・ガハパティが「自分は四つの禅定を修め、もしブッダより先に死んだならば、ブッダは自分を『二度とこの世に戻ってくることのない存在』と証言するだろう」と語っています。(※脚注:15)

 逆に、正式に出家していてもまだ修行が浅く、心が動揺や欲望に囚われることもあります。ブッダの異母弟である尊者ナンダ(Nanda)は、ブッダ自身から出家を授けられたにもかかわらず、かつての婚約者への執着で心が乱されていました。(※脚注:16) これは真の意味での「出家に根ざす(ネッカンマシターニ)」状態ではありません。

このように、ヴェーダナーの数え方は2、3、5、6、18、36、108など、場面や説明の目的によって変わります。それぞれの数や分類は、教えの一部分として理解されるべきもので、その文脈を踏まえてこそ正しく意味が伝わります。


 

脚注(元の英文の出典と対応)

1.Digha Nikaya 2.380; Majjhima Nikaya 1.113

2.Samyutta Nikaya 3.5.512

3.Ibid. 3.5.517-523

4.Ibid. 3.5.517

5.Ibid. Salla Sutta 2.4.254

6.Ibid. 2.4.267

7.Majjhima-Nikaya, Pasarasi Sutta, 1.277

“Nayam dhammo nibbidaya, na viragaya na nirodhaya na upasamaya na abhinnaya na sambodhaya na nibbanaya samvattati.”

8.Ibid. 1.271

“Bhikkhu sabbaso nevasannanasannayatanam samatikkamma sanna-vedayita-nirodham upasampajja viharati. Pannaya cassa disva asava parikkhinahanti.”

9Loc. cit.

10.Samyutta Nikaya 3.5.501 - 507

11.Loc. cit.

12.Dhammapada 142

13.Anguttara Nikaya 1.1.175 - 186

14.Samyutta Nikaya 3.4.351

15.Ibid. 3.4.54 - 55

16.Samyutta Nikaya 4.2.222

bottom of page