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वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
「すべてのものは無常です。精進し成就させてください。」

ヴェーダナーと四つの聖なる真理

書籍・CD・DVD: 書籍

ヴィパッサナー研究所(Vipassana Research Institute)
 

 ブッダの教えの要である四つの聖なる真理(Four Noble Truths)について、『アングッタラ・ニカーヤ(Anguttara Nikaya)』には、次のように述べられています。
 

Vediyamanassa kho panaham bhikkhave, idam dukkham ti pannapemi, ayam dukkha-samudayo ti pannapemi ayam dukkha-nirodho ti pannapemi, ayam dukkha-nirodha-gamini-patipada ti pannapemi.(※脚注:1)
 

 「比丘たちよ、感覚(ヴェーダナー vedana)を経験する者に対して、私は苦の真理、苦の起こりの真理、苦の滅の真理、そして苦の滅に至る道の真理を説く。」

この一節でブッダは、ヴェーダナー(感覚)の体験を通してのみ、四つの聖なる真理を理解し、実現し、実践できるということを明確に示しています。

 さらにブッダは、ヴェーダナーに照らしてこの聖なる真理を分析し、次のように述べました。

Yam kinci vedayitam, tam pi dukkhasmim.(※脚注:2)
 

「いかなるヴェーダナー(感覚)であっても、すべては苦である。」

ドゥッカ・ヴェーダナー(不快な感覚)だけが苦なのではなく、スッカ・ヴェーダナー(快い感覚)やアドゥッカマスッカ・ヴェーダナー(中立的な感覚)も、無常(アニッチャ anicca)の性質をもつがゆえに苦なのです。生起と消滅こそがヴェーダナーの特徴であり、どんなに快い感覚であっても、遅かれ早かれ消え去ってしまうため、そこには苦の種が含まれます。私たちは無知によって縛られているため、快い感覚が起こると、その無常の本質に気づかず、渇愛(タンハ tanha)や執着を育ててしまいます。これが苦へとつながります。つまり、tanha dukkhassa sambhavam(渇愛が苦の原因)(※脚注:3)です。

 渇愛は苦の原因であるだけでなく、それ自体が苦でもあります。渇愛が生じると苦も生じます。ブッダは四つの聖なる真理の第二番目を、tanha-paccaya dukkha(渇愛によって苦が起こる)ではなく、dukkha-samudaya(苦の起こり)として説きました。つまり、渇愛は単なる苦の前提条件ではなく、それ自体が苦と切り離せないものなのです。同じ強調は tanha dukkhassa sambhavam(渇愛が苦を生み出す)という表現にも見られます。実際、タンハ(渇愛)とドゥッカ(苦)は同時に生じる(sahajata)ものです。タンハが生じた瞬間、心の均衡は失われ、動揺が生じ、苦を経験します。

同様に、ヴェーダナーが生じてタンハをもたらすならば、それは苦です。したがって、ダンマ(真理)の実践に関連してヴェーダナーという用語が使われる時、そこには苦という意味合いが含まれます。中立的な感覚でも、その無常の性質を見落とすならば苦になります。ゆえにブッダは、ドゥッカ・ヴェーダナーだけでなく、スッカ・ヴェーダナーやアドゥッカマスッカ・ヴェーダナーに対しても、ヴェーダナーという言葉を苦の同義語として正しく使ったのです。

四つの聖なる真理に関連してこの事実をもう一度強調するために、ブッダは『スッタニパータ(Suttanipata)』のドゥヴァヤタナ・スッタ(Dvayatana Sutta)で次のように述べました。

Yam kinci dukkham sambhoti sabbam vedanapaccaya ti, ayamekanupassana. Vedananam tveva asesaviraganirodha natthi dukkhasssa sambhavo ti, ayam dutiyanupassana.(※脚注:4)
 

「いかなる苦しみが生じようとも、それはすべてヴェーダナー(感覚)が原因となっている――これが第一のアヌパッサナー(絶えず観察すべきこと)である。ヴェーダナーが完全に滅するところでは、苦の生じる余地はまったくない――これが第二のアヌパッサナーである。」

第一のアヌパッサナーは、ヴェーダナーを苦として絶えず観察することです。
第二のアヌパッサナーは、ヴェーダナーの領域だけでなく、感覚接触(phassa)やサラーヤタナ(salayatana/六つの感覚の領域)の領域さえも超えた現実を含みます。これはアラハント(arahant/完全に解放された人)のニローダ・サマーパッティ(nirodha-samapatti)、すなわちニッバーナ(nibbana)の体験段階を指します。第二のアヌパッサナーによって瞑想者は、ニローダ・サマーパッティの領域にはヴェーダナーが存在しないため苦も存在しない、つまりヴェーダナーの領域を超えた次元があるという真理を悟るのです。

 

ブッダは同じスッタで続けてこう述べています。

Sukham va yadi va dukkham, adukkhamasukham saha;
ajjhattam ca bahiddha ca, yam kinci atthi veditam.
Etam dukkham ti natvana mosadhammam palokinam;
phussa phussa vayam passam, evam tattha virajjati;
Vedananam khaya bhikkhu, nicchato parinibbuto'ti.(※脚注:5)

 「身体の中にも外にも、快い感覚であれ苦い感覚であれ中立的な感覚であれ、あらゆる感覚はすべて苦であり、幻想であり、はかないものである。瞑想者は、身体のどこに接触があっても、その感覚が生じたらすぐに消え去ることを観察する。感覚が滅びるのを悟ったとき、その瞑想者は渇愛から自由となり、完全に解放されるのである。」

この真理を十分に確立した人は、感覚への渇愛や執着の習慣から自由になり、もはやヴェーダナー(感覚)が存在しない状態(ヴェーダナー・カヤ vedana-khaya)に到達します(これが第二のアヌパッサナーで示されるニッバーナの段階です)。この状態を経験した瞑想者、すなわちアラハッタ・パラ(arahata-phala)の境地に至った人は、nicchato(あらゆる欲望から解放された)となり、parinibbuta(完全に解脱した者)となります。

 したがって、dukkha-sacca(苦)、samudaya-sacca(苦の起こり)、nirodha-sacca(苦の滅)、dukkha-nirodha-gamini-patipada-sacca(苦の滅に至る道)を体験的に理解するには、ヴェーダナーを対象に修行し、vedana-sacca(ヴェーダナーの真理)、vedana-samudaya-sacca(ヴェーダナーの起こりの真理)、vedana-nirodha-sacca(ヴェーダナーの滅の真理)、そしてvedana-nirodha-gamini-patipada-sacca(ヴェーダナーの滅に至る道の真理)を悟らねばなりません。

このプロセスは、『ヴェーダナー・サンユッタ(Vedana-samyutta)』に収められた「サマーディ・スッタ(Samadhi Sutta)」に明確に述べられています。

Samahito sampajano, sato Buddhassa savako;
vedana ca pajanati, vedanananca sambhavam.
Yattha ceta nirujjhanti, magganca khayagaminam;
vedananam khaya bhikkhu, nicchato parinibbuto'ti.
(※脚注:6)

 「ブッダの弟子は、集中(samahito)と気づき(sato)と、無常を徹底的に理解する(sampajano)ことによって、ヴェーダナーとその生起、そしてその消滅、さらにそれを終わらせる道を智慧をもって知る。あらゆる感覚を乗り越え、その終わりまで体験した瞑想者は、渇愛から自由となり、完全に解放されるのだ。」

さらにブッダは、アリヨ・アッタンギコ・マッガ(ariyo atthangiko maggo/八正道)を実践する目的は、ヴェーダナーを理解し、ヴェーダナーの滅(vedana-nirodha)に至ること、つまり感覚の消滅(cessation of sensations)を達成するためだと説いています。

Tisso ima, bhikkhave, vedana. Katama tisso? Sukha vedana, dukkha vedana, adukkamasukha vedana. Ima kho, bhikkhave, tisso vedana. Imasam kho, bhikkhave, tissannam vedananam abhinnaya parinnaya parikkhayaya pahanaya... ayam ariyo atthangiko maggo bhavetabbo'ti.(※脚注:7)

「比丘たちよ、ここに三種類の身体的感覚がある。どの三種類か。快い感覚、苦い感覚、そして中立的な感覚である。これら三種の身体的感覚を完全に知り、十分に理解し、段階的に無くし、捨て去るためにこそ、八正道は修行されなければならない。」

 ヴェーダナー(感覚)とは、四つの聖なる真理と八正道を実践する際に用いる「道具」です。ヴェーダナーにおけるアニッチャ・ボーダ(anicca-bodha/無常の洞察)を体得することによって、私たちはアヴィッジャ(avijja/無明)やタンハ(tanha/渇愛)の束縛から解放され、究極の真理であるニッバーナ(nibbana)に到達します。そこではあらゆる苦しみから自由であり、ヴェーダナーの領域や名色(nama-rupa/心と物質)の領域をも超えています。

【脚注一覧】
(1) Anguttara Nikaya 1.3.62
(2) Majjhima Nikaya 3.299
(3) Suttanipata 746
(4) Ibid. 383
(5) Loc. Cit 743 - 744
(6) Samyutta Nikaya 2.4.249
(7) Ibid. 2.4.250

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