
वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み成し遂げてください
ダンマの本質
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(以下の記事は、1998年5月号の『ヴィパッサナー・パトリカ』に掲載された記事の翻訳です。これはZee TVで放送された全44回の公開講話のうち、第2回からの抜粋で、1999年8月発行のVRIニュースレター Vol.9 No.8 に掲載されたものです。)
あるヒンディー語の詩の中で、私は「ダンマとは何か」をこう表現しました:
「Śhuddha citta kā ācarana, dharma samajhiye soya」
――心が清らかになり、その清らかさが行動として現れるとき、それがダンマなのです。
私たちがどれだけダンマについて議論したり、その純粋性について語り合ったとしても、それを実際に実践しなければ、何の恩恵も得られません。ですから、次のようにも言われています:
「Dhāraṇa kare to dharma hai, varanā korī bāta.」
――ダンマは実践して初めてダンマになります。さもなければ、それは空虚な言葉にすぎません。
ダンマを空虚な言葉にしてはなりません。ダンマとは、生活の中で実践されるものであり、活かされてこそ意味があります。真のダンマとは何かを理解していなければ、どのようにしてそれを実践できるでしょうか。
たとえば、ある人は「ダンマとは心を清め、それを行いに反映させることだ」と理解しているかもしれません。しかし、もし実際に心を清めようと努力せず、それに基づく行動もしないのであれば、それは非常に残念なことです。
たとえ怒りを抱えて苦しんでいても、その人はこう言うかもしれません:
「Vītarāga bhaya krodhaha...」
――私は渇望や恐れ、怒りから自由であるべきだ……
けれども、それを口にするだけで、実際にダンマを生きていなければ、それは空虚な言葉にすぎず、ただの知識となってしまいます。実践を伴わなければ、どうしてダンマの恩恵を受けられるでしょうか。このことを本当に理解したとき、初めて幸福への道が開かれるのです。そして、その道を歩み始めるとき、空虚な議論に時間を費やすのではなく、実際にダンマの実践に向かうことになります。
人はダンマについて語られる言葉を聞き、それを思い返す中で、次のように思うようになります。
「私はダンマを実践したい。では、どうすればよいのだろう? 私の心が本当に清らかで平穏になったことを、人はどのようにして知るのだろう? それはきっと、私の行動や言葉、態度によって伝わるに違いない。」
もし私が無垢な生命を奪うなら、それは不善行為ではないでしょうか。人の物を盗んだり、奪ったりすることはどうでしょう。不貞をはたらくことは、不善行為ではないでしょうか。嘘をついたり、人を欺いたり、侮辱したり、中傷したり、ある人の話を他の人に伝えて対立を生み出したり、無駄な会話で時間を浪費すること――こうしたこともまた、不善行為です。
それでも人は、たとえ身体や言葉によって不善な行為をしていたとしても、自分は良い人間だと信じていることがあります。「私のように善良な人間はいないだろう。私は寺院でもモスクでも教会でもストゥーパ(仏塔)でもグルドワーラー(シク教の寺院)でも、立派な儀式を行ってきた。私は正しい信仰を持っている」と。
けれども、それは幻想にすぎないかもしれません。もし日々の生活や言動にダンマがなければ、どうして「私はダンマを持っている」と言えるでしょうか。
では、なぜ人の言葉や行いが不純になるのでしょう? それは心が汚れているからです。たとえば怒りが心に生じなければ、人を傷つけるような行為はできません。強い怒りや憎しみがあって初めて、人は人を殺すことができるのです。強い欲望があって初めて、人は盗みを働きます。強い渇望があってこそ、不貞をはたらきます。傲慢さや他の煩悩が心に生じたとき、人は不善な言葉を使うようになります。嘘をつき、侮辱し、中傷し、心を汚していくのです。
だからこそ、私たちは心を汚してはならないと理解すべきなのです。なぜなら、心が汚れると、その害を最初に受けるのは自分自身だからです。怒りに駆られて不善な言動をすると、たしかに他人にも害を与えますが、最初に苦しむのは自分自身です。心の中に怒りが生じるその瞬間から、自然は私たちを罰し始めるのです。どのような煩悩であれ、それを生じさせれば必ず不幸を招きます。
したがって、不善な言葉や行いは、自分自身にも他人にも害を及ぼします。一方で、そうした行為を避けることができれば、自他ともに大きな恩恵がもたらされます。ダンマとは、議論のためにあるのではありません。実際に実践されてこそ意味があります。もし私たちが争い、戦い、傷つけ合うようなことをしているなら、それはもはやダンマではなく、ダンマの影すら残っていません。ダンマの名のもとに道を見失い、混乱し、自他を傷つけているのです。
ある人は、「殺してはいけない」「盗んではいけない」「不貞を犯してはいけない」「嘘をついてはいけない」「他人を侮辱してはいけない」「乱暴な言葉を使ってはいけない」とよく理解しています。しかし、もしその人がアルコールを摂取すれば、たちまちアルコールの奴隷となり、理性を失ってしまいます。そして、アルコールに影響されたまま、望ましくない言動をしてしまいます。だからこそ、賢者たちはそれを避けるよう勧めてきたのです。
助言を与えることはたやすいことです。理屈として理解し、納得することも簡単でしょう。けれども、実際にアルコールを断つことができるでしょうか? アルコール依存の人は、その害をよく理解しています。「酒は有害だ。私の理性を奪い、私はその奴隷となり、酔えばしてはならないことをしてしまう。これは私や家族を破滅させる」と。けれども、時間がくれば、また飲んでしまうのです。
ギャンブラーも同じです。「ギャンブルはよくない。家族にも自分にも害になる」と理解していても、やめられない。機会があれば、またギャンブルをしてしまいます。不貞をはたらく人も、「してはいけない」と理解しているにもかかわらず、チャンスが来ればまたしてしまうのです。怒りやすい人も、「怒ってはいけない。自分が苦しむ」と理解していても、望ましくないことが起こればイライラし、怒ってしまう。望むことが起こらなければ、また怒りを抱き、苦しんでしまうのです。
ただ頭で理解して受け入れるだけでは、不十分なのです。なぜ自分がそのような行為をしてしまうのか――その根本原因を知らなければなりません。アルコール依存の人も、ギャンブラーも、怒りっぽい人も、それぞれが「してはいけない」と理解しているのに、それでもしてしまう。それはなぜか――心が自分の支配下にないからです。心が制御できていない人は、どれだけ知的に理解していても、自らをコントロールできません。彼は自分自身の主人ではないのです。
かつてインドには、古代の尊い伝統がありました。それは単なる説教の伝統ではなく、実践に基づくダンマの伝統でした。もしダンマが単に「人を殺してはいけない」「盗んではいけない」「怒ってはいけない」と説くだけであったなら、人々は「おっしゃるとおりです。とても感動しました」と頭を下げるかもしれませんが、話を聞いたその耳から抜けてしまうだけです。どれほど立派な話であっても、どうやって実生活で実行するかを知らなければ、結局、毎日同じように不善行為を繰り返してしまいます。
しかし、インドの古代の伝統では、説法とともに「どのように実践するか」がきちんと教えられていました。ブッダになるような人 ―― つまり完全に清らかで解脱し、智慧を確立した人は、渇望・嫌悪・無知という束縛から自由になり、未来の苦しみからも解放されました。そのような人は大いなる慈しみの心を持ち、人々にダンマを説くとき、ただ言葉だけでなく、日々の暮らしの中でそれをどのように実践するか、心をどのように制御するかを具体的に教えたのです。
心を制御するために、数多くの技法が教えられました。さまざまな種類の瞑想法も存在していました。中でも、インドには古代から伝わる瞑想技法があり、それを実践することによって、心を制御するだけでなく、心に根づいた汚れそのものを根こそぎ取り除くことができたのです。
心の習慣やパターンは、私たちの深層意識に根ざしており、そこから煩悩が繰り返し生じてきます。貪り、怒り、慢心――こうしたものが心の性質となってしまっているのです。そして、それが原因となってさまざまな種類の汚れが生じ続けます。
ですから、心の表面的な浄化だけでは不十分なのです。たとえ心を集中させ、ある程度表面を清らかに保てたとしても、それだけでは深層にある汚れの増殖を止めることはできません。心の性質そのものを変える必要があります。
インドの古代の技法の中には、数多くの過去世にわたって蓄積された汚れを根こそぎ取り除く、科学的な方法がありました。この技法を純粋な形で実践するならば、非常に大きな効果があり、即効性もあります。心の性質が変わり、深いレベルでの浄化がもたらされるのです。こうして人は、ダンマに則った生き方を始めることができるようになります。
この技法は、インドで生まれました。しかしその後、インド国内では純粋な形で保たれることがなくなってしまいました。さまざまな哲学的な概念や儀式が加えられ、宗教の枠の中に閉じ込められていったのです。すると、心の浄化という本来の効果が失われてしまいました。効果が失われれば、人々はそれを実践しようとは思わなくなります。恩恵をもたらさない技法は、やがて人々から忘れ去られてしまいます。
今からおよそ2500年から2600年前、この科学的な心の浄化法はインドで失われていました。そんな中、カピラヴァットゥの王子シッダッタ・ゴータマは、すべての苦しみと汚れから解放される道を求めて家を出ました。彼は生涯をかけて懸命に修行を重ね、ダンマの力を高めていきました。そしてついに、ヴィパッサナーという技法を再発見したのです。
彼はこの技法を通して真の幸福を得、心を完全に清め、ブッダとなりました。すべての汚れから解放された彼は、無限の慈しみに満ち、この技法を人々に教え始めたのです。彼は生涯をかけて、多くの人々にこの道を説きました。
その後、数世紀にわたって、インドはこの技法から大いなる恩恵を受けました。しかし、やがてこの技法の純粋な形が失われると、それは隣国へと伝えられ、そこでは純粋な形で守られてきました。師から弟子へ、代々ごく限られた人々の手によって、その技法は脈々と受け継がれてきたのです。
こうして守られてきたインドの古代の宝は、ついに再びその起源の地――インドへと戻ってきました。
かつてインドには、瞑想センターの伝統がありました。村々や森の中に、在家・出家を問わず誰でも訪れることのできる瞑想センターが存在していました。人々はそこでこの技法を学び、心を浄化し、日々の生活をより良くしていったのです。その結果として、人々は幸せになり、他人にもその幸せが波及し、平和もまた広がっていきました。
この技法を、今こそ私たちは真剣に学ぶべきです。これは仏教徒だけのものではなく、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、誰であっても実践できるダンマの技法です。ダンマはすべての人に関係する普遍の法です。ダンマは限りなく開かれており、無制限に恩恵をもたらします。では、この技法がどのように実践されるのかを、よく理解しましょう。
瞑想センターに足を運び、少なくとも10日間は滞在して、この技法を学び、実践してみてください。一度学べば、大いなる幸福と満足感が得られます。
純粋なダンマを実践しましょう。ただ心を制御するだけでなく、心を深く清らかにするためにダンマを実践しましょう。心の表面だけでなく、その奥深くにある根本の汚れを取り除くために、この技法を活用しましょう。
この実践は、真の幸福、真の満足感をもたらしてくれます。空虚な言葉だけではなく、実際に行動する人こそが、真の平和、真の幸福、そして真の解放を体験することができるのです。


