top of page
banner.png

वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み成し遂げてください

ダンマの真の意味

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

 ダンマという言葉は、インドではこの1,500年から2,000年の間に誤って使われるようになりました。人びとが「ダンマ」を宗教や宗派の意味で使い始めたからです。

 しかし、本来の「ダンマ」とは、普遍的で永遠のものです。「ダンマ」は仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、ユダヤ教、イスラム教など、いずれの宗教や宗派にも属しません。
 古代インドにおいて、「ダンマ」とは自然の普遍的な法則を意味しており、すべての人に等しく適用されるものでした。現代でもこうした意味で使われることがあります。たとえばヒンディー語では「火のダンマは燃えることであり、ほかのものを燃やすことでもある」と言います。これは「ダンマ」は宗教とは関係なく「火の本性」を指しています。火が、仏教徒であったり、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒などであるはずがありません。火は火です。

 同様に、氷は氷です。氷のダンマは「冷たくすること」です。これが氷の本性であり、普遍的かつ永遠の性質です。

同じように、人が怒りや憎しみ、嫉妬、敵意といった否定的な感情を生じると、不快な身体感覚が起こり、苦しみを感じます。

 このような心の汚れ(渇望と嫌悪)や、その結果としての苦しみは、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教のいずれにも属しません。これが心の汚れの性質であり「人を苦しめるもの」です。

 インドが独立を果たした際、政府は憲法を制定しました。その中で、インド政府および憲法は「ダンマ・ニルペークシュ(Dharma-nirpeksh=非ダンマ的)」とされました。しかし、これは大きな誤りでした。どのような政府も「非ダルマ的」であることはできません。政府はむしろ「ダンマ的」でなければならない、つまり「正しい行い」に価値を置くべきなのです。本来なら、憲法は「非宗派的(panth-nirpeksh)」であるとすべきでした。英語の「secular(世俗的)」という語を「ダルマ・ニルペークシュ」と誤って翻訳してしまったのです。

 著名なヒンディー作家セート・ゴーヴィンダダース氏は、この憲法のヒンディー訳に関わっており、私はビルマ(現ミャンマー)で彼と面識がありました。この誤訳について彼に指摘したところ、彼も誤りを認め、後に修正されました。また、インドに帰国してから知ったのですが、故ラクシュミマール・シンヴィジーもこの間違いに反対し、修正を求めていたとのことです。こうして、「ダンマ・ニルペークシュ」は「パンタ・ニルペークシュ(宗派に依存しない)」へと訂正されました。それでもなお、多くの指導者がいまだに「ダンマ・ニルペークシュ」という誤った言葉を使い続けています。

 「ダンマ」に宗派的な意味を加えると、その本来の意味が損なわれてしまいます。ブッダは「ダンマ」に宗派的な形容詞を加えることはしませんでした。彼が唯一加えた形容詞は「真理(sacca)」です。だからこそ彼は「サッダンマ(saddhamma=真のダンマ)」という言葉を用いたのです。この「サッダンマ」に基づいた教えは、盲目的な信仰を生むことはありません。自然の法則は万人に共通するものであるからです。「サッダンマ」は宗派を生まず、その全体が「真理」に基づいています。

 それゆえ、ブッダは「サッチャナーマ(saccanāma=真理という名を持つ者)」と呼ばれました。「ナーマ」とは心を意味します。つまり、「サッチャナーマ」とは、常に真理に心を浸している人を意味するのです。この「サッチャナーマ」は、やがて「サタナーマ(satanāma)」とも呼ばれるようになりました。

 インドにおいて、バクティ・マーガ(信愛の道)が主流となった時代には、ある聖者たちが「サタナーマ」という言葉を神の別名として使いました。たとえば、以下のような詩があります。

 「浄らかな者は“サタナーマ”を唱えて、自身も救われて、家族も救われる」カビールダース

 「“サタナーマ”を唱えずに人生を過ごせば、泣いて一生を終える」ダリヤー・サーヒブ

 「“サタナーマ”の宝を手にして、天空の世界を見よ」 ジャグジーヴァン・サーヒブ

 また、「サタナーマ」が本来の意味で使われた例として、グル・ナーナクの以下の言葉があります。

 「サティナーマ カルター・プルシャ」、 これは「その名が真理であり、行いも真理である者」、つまり自身の努力によってサタナーマの境地に達し、あらゆる憎しみと恐れを超えた者を意味します。

 「アカーラ・ムールティ」永遠で不滅
 「アジューニー」再び生まれない(パーリ語の「natthi dāni punabbhavo」と同じ)
 「グル・プラサーディ」 この「サッチャダンマ(真理のダンマ)」は、よき師の恩寵によってのみ得られる

 だからこそ、グル・ナーナクはダンマの道において「真理の実践」を重視されました。

 「いかにして真実を生き、偽りの壁を破るか」


 一つ一つの歩みが「個人の体験による真理」に基づくべきであり、心にある虚偽の層がすべて取り払われるべきなのです。

 このように、「苦しみからの解放への道」はすべて真理を基盤としています。

 「最初から真理であり、時代の始まりから真理であり、今も真理であり、ナーナクよ、これからも真理である」
  瞑想の実践は、まず「真理そのもの」を対象として始まり、進むにつれて「今この瞬間の真理」を何より大切にしなければなりません。    

 そして一歩ずつ真理を土台にして進むと、最終的に「未来においても真理」に到達するのです。 

 この「真理の道」を実践したいと願う者は、単なる思考や推論によって何かを得ることはできません。

 「いくら考え続けても、たとえ十万回思考しても、真理には到達できない」

 ブッダもまた、「聞いて得た智慧(suta-mayā paññā)」や「思考による智慧(cinta-mayā paññā)」では、究極の悟りに到達できないと説きました。そのため、彼は「心を静める瞑想の実践」を教えたのです。

 ある伝統では、「沈黙を守れば最終段階に達することができる」と信じられています。しかし、たとえ言葉を発さずとも、心の中では絶えず思考やイメージが浮かび続けています。

 だからこそ、グル・ナーナクはこう言いました。

 「沈黙を守ったとしても、真の沈黙には至らない。たとえ沈黙に専念しても、それだけでは足りない」

 

 また、別の修行者たちは「骨と皮だけになるまで身体を飢えさせれば悟れる」と考えました。逆に、欲望に従って満腹になるまで食べる道もありました。しかし、食べて満たされたように思えても、欲望が完全に消えることはありません。

 「飢えた者は満腹になっても飢えは消えない。たとえ食物で腹が満たされても欲は尽きぬ」

  ブッダは、瞑想者は「食の適量を知る者(bhattamattaññū)」であるべきだと教えました。つまり、自分に必要な分だけを知って、食べ過ぎず、また不足もしないということです。

 「たとえ千人の賢者がいても、そのうち究極の境地に到達できるのはごくわずか」

  グル・ナーナクは、最終段階に到達する道についてこう語っています。

 「自然の法則(hukam)に従って歩まなければならない。これは誰の教えでもなく、自分自身の体験を通して理解されるものである」

 この「自然の法則(hukam)」は、書物や説法によって理解されるものではありません。それは自分の内側に存在し、直接体験することでしかわからないのです。

 グル・ナーナクはさらにこう言いました。

 「この法則はすべての人の内にある。外には存在しない」

  外に探し求めても意味はありません。この法則を直接体験によって理解することで、人は前に進むことができます。この法則は、普遍的なものです。

 偉大な聖者たちは、この「解放への道」に自ら取り組む者たちのことを「シッカ(sikkha)」と呼びました。これはパーリ語の「セッカ(sekkha=修行者)」と同義です。

 「ナーナクは言う、もし誰かがこの法則を体験によって理解すれば、『私が』という自我はなくなる」

  体験によってこの「法則(hukam)」を理解したとき、エゴ(自我)は完全に滅され、「私が」や「私のもの」と言う感覚は消え去ります。

 「自我は行いの根源であり、それによって輪廻が続く」
 「自我こそが束縛であり、それが再生を繰り返す」

 自我がある限り、業(カルマ)が生まれ、それが輪廻(再生)へとつながっていくのです。

 また、次のようにも語られます。

 「自我は深刻な病であり、しかしその治療法は内にある」

  体験を通じてこのことを理解すれば、解放への道はすべて自らの内にあると分かります。

 「“私が”“私のもの”という幻想に惑わされることで、真理を見失ってしまう」
 「無知な者は理解せず、言葉ばかりを並べ、執着にとらわれて他人と争いを起こす」
 「幻惑された心は真理を理解せず、知識を持たない」
 「功徳を積んだ者は、自らのエゴを滅ぼす」
 「真理に導く言葉を聞いて、心は真理に染まる」
 「“私のもの”という幻に囚われている人は、それが苦しみからの解放への道において何の助けにもならないことに気づいていない」

 グル・ナーナクは、どのようにして「真理を実現」するかという方法も明確に示しています。

 ブッダもまた、私たちは「ありのままの真理(ヤター・ブータ yathā bhūta)」、つまり今この瞬間に自分の内側に現れている真理を、直接的に体験を通して理解すべきだと教えました。それは作られたものでも、押しつけられたものでも、想像の産物でもあってはなりません。

 グル・ナーナクも同じ道を説いています。

 「創られたものではなく、創られ得るものでもない。ただそれ自体が、それとして存在している」

 これは「瞬間ごとに自分の中に現れる真理(サッチャナーマ saccanāma)」に、外から架空の信仰や考えを押し付けてはならない、ということです。だからこそ、この真理は「ニランジャナ niranjana(汚れのないもの、混じりけのない真理)」と呼ばれます。

 自らの内に現れる「心と物質(名色 nāma-rūpa)」の真理を客観的に観察したとき、人はこの「心身の現象」が常に生じては消えている、一時的で無常なものだと、自分自身の体験を通してはっきりと理解します。

 このように、自分の内側の「心と物質」の本質を体験的に理解したとき、人は「私は」「私のもの」といった錯覚に基づく渇望や嫌悪を生み出すことがなくなります。つまり、幻想の罠から自由になり、究極の真理に到達するのです。

 このようにして、「苦しいからの解放への道」は完全に「真理」に基づいています。この真理は永遠不変であり、外的条件に左右されることはありません。

 私は幼少期、カーリーサ学校(Khalsa School)に通っており、友人たちと挨拶を交わすときには「サタ・スリ・アカーラ(sata-siri-akāla)」と言っていました。これは「真理は吉祥であり、永遠である」という意味です。当時の私はそれを「ナマステ」や「プラナーム」と同じような挨拶だと思っていました。

 しかし後に、この「サタ・スリ・アカーラ」の真の意味を理解したとき、私は心から喜びを感じました。

 真理の道を歩む瞑想者は、自らの心と身体の全体的な現象(サッチャカンダ saccakkhandha)に関する真理を体験し、あらゆる心の汚れ(煩悩 kilesa)を根絶し、心を完全に清らかにします。そのときこそ、人は「カーリーサ(Khalsa)」と呼ばれるのです。

 そのため、グル・ゴービンド・スィングジーはこう言いました。

 「カーリーサとは、真理そのものである者のこと」
 すなわち、究極の真理(ナカーリーサ nakhālisa)を自らの体験で知った者が、カーリーサなのです。そこには、出自や人種、国籍といった区別はまったくありません。

 このように、心を完全に浄化されたカーリーサを育てることのできる師こそが、真の師(サッドグル sadguru)です。このような師は高く称えられ「ワーヘグル(wāheguru)」と呼ばれます。

 この「ワーヘグル」とは、真に純粋な弟子(カーリーサ)を育てることのできる尊い師のことです。そして、そのような師は常に尊敬と称賛を受けるにふさわしい存在です。

 「ワーヘグルジーのカーリーサ、ワーヘグルジーの勝利」

 真のダンマ、つまりサッダンマ(saddhamma)の道を歩むカーリーサ(=セッカ=修行者)は祝福された存在なのです。

 「最初から真理であり、時代の初めから真理であり、今も真理であり、ナーナクよ、これからも真理である」

 このような道を歩む人は、真に幸福となり、間違いなく苦しみから解放されるのです。
 

bottom of page