top of page
banner.png

वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み 成就しなさい

真のダンマとは何か

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

 S. N. ゴエンカ師が1998年にマハーラーシュトラ州ナーシクのラムバーイ・アンベードカル女子高等学校で行った公開講演の内容です。

親愛なるナーシクのダンマの地の皆さまへ
 

 ナーシク地方は、何千年にもわたってインドの高貴な精神的中心地として崇められてきました。マハーラーシュトラ州だけでなく、インド全土にとっても精神的に誇りとなる地だでした。古(いにしえ)の時代から、人びとはこの地に訪れて、崇高な精神性を確立しようとしてきました。

 このゴーダーヴァリー川のほとりから、数百マイル離れたペイタン(Paithan)地域にかけて、約1,800年前には多くの聖地があり、聖者や賢者たちが瞑想(タパス)に励み、深く多様な修行を行っていました。ある者は瞑想し、ある者は火の儀式(ヤギャ)を行い、またある者はさまざまな伝統の戒律や誓いを守っていました。その後、この地だけでなくインド全土を巻き込んで、「バクティ(信愛・帰依)」の大きなうねりが起こり、多くの人が包み込まれました。その伝統は今でも脈々と続いています。


 今、再びヴィパッサナーという深い瞑想の時代が来ました。それだけでなく、ナーシクの人びとは熱心に受け入れようとしており、彼らが強い精神的な素養を持っていることを証明しています。つい先日、近郊のムンバイで、「グローバル・ヴィパッサナー・パゴダ(世界ヴィパッサナー塔)」の礎石を据える大きな式典が行われました。その際、ある来賓者に尋ねられました。「先生、なぜこの地を選んだのですか。ほかのインドの地ではなく、なぜここに惹かれたのですか?」と。実は、私がこの地を選んだのではなく、この祝福された地が私を選んでくれたのです!


 この地の人びとには精神性が高い傾向にあり、ダンマの大切さを理解しています。正しく説明すれば、その本質をつかみ、歩み始めようとします。これはただ話をするだけ、頭で考えるだけのものではなく、実際に自分で歩む道だからです。ダンマは実践されなければ、求める結果を得ることはできません。ただの空論や推測に終始しては、ダンマの本質的な活力は失われます。

 では、ダンマとは何でしょうか。どうすればダンマに則って生きられるのでしょうか。そして、なぜダンマに沿って生きる必要があるのでしょうか。これから3日間かけて、このテーマをある程度深く探求していきましょう。


ダンマとは何か


 この1,500~2,000年の間に、残念なことにインドは「ダンマ」という言葉の、本来の意味を失いました。そもそも意味を理解できなくなれば、それに則って生きることなどできません。さらに悪いことに、さまざまな“支え”―言ってみれば「松葉杖」のようなもの―が付け加えられました。さまざまな共同体がそれぞれの“ダンマ”を作り上げて、「仏教ダンマ」「ジャイナ教ダンマ」「ヒンドゥー教ダンマ」「キリスト教ダンマ」などが生まれたのです。


 本来、ダンマには支えなど必要ありません。ダンマは自らが支えとなる存在です。しかし、そうした松葉杖がつくと、それだけが表に立ってしまい、真のダンマが見えなくなります。それはわたしたちの大きな不幸でした。


 古代インドでは「ダンマ」とは「内に取り入れ、生きて示すもの」を意味していました。サンスクリットで「ダーレーティティ・ダンマム(dhāretīti dhammam)」という表現があります。「ダンマ」とは、ある瞬間に心の表面に生じるその要素の「性質」や「特徴」を指します。たとえば火の特性は「燃やす」ことであり、触れるものを熱さで苦しめることです。氷の特性は「冷やす」ことであり、触れるものを涼しくすることです。


ダンマは自然の法則


 同じように、わたしたちは自然の法則として「生あるものはすべて老い、病み、死を迎える」という真理を口にしますが、こうした「自然の法則」そのものがダンマであると考えられてきました。

 では心の性質はどうでしょうか。心に怒りや敵意、嫉妬、傲慢といった煩悩が起こったとき、それによって心の内側は熱く混乱します。これが心の性質です。煩悩が起こると必ず心は乱れる。これは避けられないのです。

 昔のリシ(聖者)やサドゥ(修行者)、グル(導師)、アラハン、ブッダなど偉大な探求者たちは、長い時間をかけて「ダンマとは何か」「心の本性とは何か」を探求しました。そして、どんな煩悩であれ、怒りや嫉妬、傲慢といったものが起これば、それに伴って熱と苦しみが必ず生まれることを発見したのです。これらの煩悩は必ず苦しみをもたらします。
 

 わかりやすくいえば、熱く燃える炭を容器に入れれば、まず容器自身が焼かれます。近づく人も熱気を感じるでしょう。同じように、容器に氷を入れれば、まず容器が冷え、周りに涼しさを与えます。まさにこれは変えようのない自然の法則なのです。


 火に例えると、誰かが怒りを爆発させれば、その人自身がいちばん最初にその怒りの被害を受けます。そこから周囲にも熱や混乱の波動が広がりますが、元をただせば自分自身がいちばん苦しんでいるのです。ちょうど燃える炭に近づくと熱いように、怒りを放っている人の周りにいる人びとも影響を受けますが、その本人に苦しみがまず起こります。無知(アヴィッジャ、無明)に陥った心の自然な表れです。
 

 子どもがまだ火の熱さを知らずに、燃える炭を手で触り「熱い!」と驚いて手を引っ込めます。ところが好奇心からもう一度触ってまた火傷をする―それが繰り返され、最終的に子どもは「これは火だ。触るとやけどをする」と理解します。しかし、大人になっても、私たちは怒りや嫉妬といった煩悩にしょっちゅう手を伸ばし、結果的に自分や周りの人びとを焼いています。これはまったくの無知から来る行為です。
 

 怒りや嫉妬などの煩悩が起こるとき、私たちはつい「こういう出来事があったから怒ったのだ」と外的な要因だけを見て、その瞬間に心の内側で起こっている熱や混乱には気づきません。その一方で、もし容器の中に冷たい氷を入れるように、心に慈しみ(メッター)や思いやり(カルナー)、他人の喜びを共に喜ぶ気持ち(ムディター)を育てれば、自分の内側が冷たく穏やかになり、周囲にも安らぎを広げられます。
 

 こうした内面を観察する科学、テクニックが、古代インドで「ヴィパッサナー」と呼ばれていました。外の現実を見ることも必要ですが、同時に起こる内面的な反応を観察することが心の成長には欠かせないと考えられていたのです。もし私が何か気に入らないことが起こったとき、心の中でどんな変化が生じているのかを客観的に見つめられるようになると、真のダンマが見え始めます。
 

 「心に煩悩が生まれるたび、自分は必ず乱れ苦しむ」という真実を何度も見つめ体感することで、このダンマの法則を深く理解するようになります。最初は「外の出来事」に意識が向き、そもそもの原因は「出来事や人物だ」と考えがちですが、修行が深まると「今このときに自分の内側で起こっていること」に注目し、「ああ、怒っている」と気づきます。そうやって客観的に観察できるようになると、だんだんと行動や性格がダンマに即したものへと変化していきます。
 

 さらに、嫉妬や怒りなどの煩悩に塗(まみ)れることはダンマではないと体験的にわかるようになります。逆に、慈悲や他人の幸せを喜ぶ心といった善なる性質を育むと、自分自身が穏やかになり周囲も安らかにするので、これこそがダンマなのだと確信するのです。
 

 「dhāretīti dhammam(ダーレーティティ・ダンマム)」―ダンマは「実際に生き抜き、身につけるもの」です。体験によってそれを理解したとき、初めて人は真のダンマを生きる人になります。もし内側に火を抱えて生きれば自ら燃えるし、氷を抱えて生きれば自ら冷える―これを変えることはできません。これは「rit(リト)」と呼ばれる普遍的な自然の法則であり、ヒンドゥー教徒でもイスラム教徒でも、どんな宗教やコミュニティに属していようと、関係なく同じことが起こります。
 

 このダンマの普遍性を理解したとき、人類は大きく飛躍するでしょう。


 逆に、この普遍的真理を忘れて、外面の儀式や形式ばかりにとらわれてしまうと、自分の心の進歩は遅れるか、むしろダンマから遠ざかってしまいます。
 

 もちろん、各宗教・各コミュニティにはそれぞれの儀式や服装、生活観、社会慣習があるでしょう。それ自体は問題ではありませんが、そうした社会的・外面的な儀式はダンマではありません。そこにのみ没頭していると、自分では「ダンマに生きている」と思いこんでも、実際には煩悩だらけで落ち着きもなくなり、自分も周囲も不安にさせているかもしれません。


 先ほど述べたように、ダンマは普遍的であり「煩悩を減らしているかどうか」が唯一の基準です。そこには宗派や階級は関係ありません。誰であっても、煩悩が減り、慈しみや思いやりが増しているかどうか、それだけが真の指標なのです。
 

真の意味で「自分のため」を考えること


 ダンマは、ある意味「真に利己的になること」を教えてくれます。本当に自分のためを思う人は、あらゆる場面で「今、自分の心に何が起こっているのか」を観察し、自分の最善の利益にかなう道を選ぶようになります。世間一般でいう「自己中心的」というのは、嘘やズルをして自分の利益を守るようなイメージですが、実はそれをやっているとき、人は心に煩悩を抱えて苦しみ、自分を傷つけています。真に自分の利益を追求するならば、むしろ煩悩を減らして平穏に生きる道を選ぶはずです。
 

 もし慈悲や思いやり、すべての存在への善意(グッドウィル)が育っているなら、それは自分のためにもなり、周囲にも良い影響を与えます。反対に、もし怒りや敵意などの煩悩が優勢になれば、自分の利益を害しているのです。
 

 単に理解するだけでは足りず、実践が大切です。だからこそ、インドで、霊性に進んだ聖者たちは、人びとに「自分の内面を観察しなさい」と説いてきました。外の世界がどうであれ、内面を見る力がなければ意味がない。内を探究し、真の宝を見出すとき、人生は深く、豊かに、価値あるものになります。穏やかで喜びに満ちた生き方、すなわち「生きる技」を身につけることができます。
 

 誰だって、煩悩に燃える地獄の炎の中で苦しみたくはありません。ところが、古い習慣に囚われると、望まないことが起こるとすぐに嫌悪感を抱き、望むことが起こると執着や欲望が湧き出し、結局は苦しみを増やしてしまいます。このパターンは深く根づいていて、説法だけでは変わりません。自分自身が変わるには、内側からの働きかけが必要です。
 

リシたちの探求


 リシたちは、外面的な知性や理論ではなく、内面を観察することによって「rit(自然の法則)」を探究しました。その結果、ある方法として「怒りや嫌悪感が起こったら、何か別のことに意識を向けなさい」という対処法が見いだされました。たとえば、水を飲むとか、1・2・3・4と数えるとか、あるいはお気に入りの神様の名前を唱える、といった具合です。これは一定の効果を発揮し、怒りは一時的に和らぐかもしれません。
 

 しかし、より根本的な解決としては、「もし心を汚す煩悩を生じさせれば、自然は必ず苦しみで応じる。しかもそれは即時にやって来る。反対に、善なる状態を育めば、すぐさま平和や喜びをもたらす」という法則を体験的に理解することこそが非常に大きな力を持ちます。まるで、声や動作が返ってくるエコーのように、自分の心の状態が即座に自分を苦しませたり喜ばせたりするのです。
 

 私たちがどの国に住んでいても、その国の法を破れば処罰の対象になるかもしれませんが、運がよければ裁判や手続きの不備などで処罰を逃れることもあるでしょう。しかし、自然の法則=ダンマにおいては逃れられません。煩悩を起こせば、必ずその場で心が乱れる。善意を起こせば、必ずその場で安らぎを得る。こうした法則をしっかりと体験し始めると、人の生き方や行動は自然に変わっていきます。

 本当は誰だって不幸になりたくはないのに、無知から怒りや嫉妬を何度も生じさせ、さらに不幸を重ねてしまいます。たとえぼんやり心がさまよっているだけでも、いつの間にか煩悩が生じ、火に油を注いでしまう―そんなことが起こりがちです。


 説法や教えを聞くだけで実行に移さなければ、せっかくの教えは役に立ちません。私自身もかつては、数多くの儀式に没頭し、たくさんの説法を聞いてきました。確かに一時的には「そうだ、自分も死んでしまえば何も持っていけない。執着や傲慢さに意味はない」などと深い思いに打たれることはあります。けれども、それは往々にして「火葬場の智慧」と呼ばれる一時的な目覚めに過ぎないのです。そこから一歩出れば、すぐさま「私」「私のもの」の世界に戻ってしまうのが常でした。
 

 同様に、説法を聞いて「なるほど、怒りは自分を苦しめ、慈悲は自分を救うんだ」と理解しても、その場限りで実行しなければ、またいつものパターンに戻ってしまいます。一時的にお経や聖歌を唱えたりすると、確かに心が静まり、心地よくなることがありますが、これもまた表層的な心(パリッタ・チッタ)のレベルでしか変化を与えません。


心の層について


 古代では、意識の表面層を「パリッタ・チッタ(paritta citta)」と呼びました。ここでは何を考えようと、実はそれが深い層(潜在意識)にほとんど浸透しないのです。一方、心の奥深い部分、潜在意識の大きな領域では、昔からの習慣的な反応パターン―望みが叶わないときの嫌悪感、望みが叶うときの執着―がずっと繰り返されています。このパターンを根本的に変えない限り、真の変革は起こりません。

 それは今生で培った習慣かもしれないし、前世からの長い因縁という考え方をする人もいるかもしれません。いずれにしても、小さいころからずっと、嫌なことがあれば嫌悪、欲しいことが手に入らなければ不満という反応が自動的に起きているのが実情です。これを変えていかなければなりません。


ヴィノーバー師との出会い


 1972年、私がビルマ(ミャンマー)からインドに戻って3年後、ワルダ(Wardha)にあるマハトマ・ガンジーのセーヴァグラム・アシュラムでヴィパッサナーの10日間コースが開かれました。そのとき「近くのパウナー(Pawnar)アシュラムにはヴィノーバー・バーヴェ師がいるので、会ってきたらどうですか」と勧められ、私は喜んで師を訪ねました。そこで「ヴィパッサナーは古代インドの瞑想法です」とお話しすると、ヴィノーバー師は「そうです、古いインドの教えですね。リグ・ヴェーダにもヴィパッサナーをたたえる言葉が出てきますよ」と言われ、次のリグ・ヴェーダの詩句を暗唱してくださいました。そして後で手書きのメモとしても送ってくださいました。

Yo vishwabhi vipassati, bhuvana.
Sam cha passati, sa naha parshadati dvishaha.

(ヨー・ヴィシュワビ・ヴィパッサティ 

ブヴァナ。サム・チャ・パッサティ

サ・ナハ・パルシャダティ・ドヴィシャハ)

Yo vishwabhi vipassati:世間に背を向け(abhimukh)、

つまり外側ではなく内側を観察する(ヴィパッサナーをする)人

vishwa(ヴィシュワ)とは「拡大・増殖するもの」という意味。

当時は「世界」というより、「増殖性をもつもの」を指していた。

たとえば、いったん心に怒りが生まれると、それは短時間の一過性ではなく、

何時間も燃え続けることがあるように「どんどん広がる」性質をもつ。

そうした煩悩が起こったとき、ヴィパッサナーの実践者は「ただ、今このとき煩悩が起きた」と客観的に気づく。

無理に押しやったりせず、理由を思い返して自分の怒りを正当化したりせず、ただありのままを観る。

これがヴィパッサナーである。

そうすると、煩悩は必ず消えていく。

sa naha parshadati dvishaha

(サ・ナハ・パルシャダティ・ドヴィシャハ)

―悪意や煩悩は、観られた瞬間に力を失い、立ち去っていくのである。



古の知恵


 何と不運なことでしょうか。これほど貴重な古代インドの実践法が、ただの言葉だけになり、その肝心の実践が失われていたのです。だからこそ、2600年前にこの地の完全なる悟りを開いたブッダ(ゴータマ・ブッダ)が、それを再発見したとき、こう言いました。
 

「Pubbe ananussutesu dhammesu cakkhuṃ udapādi…..」
これまで聞いたことのないダンマによって、わたしの智慧の眼が開かれた……

 

 ブッダは、王子時代に父王シュッドーダナから当時の聖典のすべてを学んだでしょう。リグ・ヴェーダにも触れていたでしょう。それなのになぜ「これまで聞いたことがない」と言ったのでしょうか。それは、ヴィパッサナーの真の意味や実践法が既に失われ、言葉だけが残っていたからだと考えられます。単にマントラを唱えるだけで「煩悩が消える」とされたり、どうやって実際に内面を観察し、煩悩を薄めていくのか、その具体的方法は継承されていなかったのです。
 

 こうして再びブッダによって再発見されたこの貴重な実践は、その後500年間は、インドにおいて活きた教えとして広まりました。特に中部インドに位置するこのマハーラーシュトラ州ではさらに200年間続き、合計700年間もの間、ヴィパッサナーは盛んに行われました。その証拠に、この辺りには今でも瞑想洞窟が数多く残っています。しかし、やがて儀式や形骸化した行為が主流となり、再びダンマそのものが失われていったのです。


真のダンマとは


 ダンマとは、心を浄化するための教えです。心が清らかであれば、身体や言葉として表に出る行為も自然に適切なものとなります。逆に、心が煩悩にまみれていれば、どんな言動をしても問題が起こります。これを解決する魔法も奇跡もなく、一人ひとりが修行によって少しずつ浄化していくしかありません。

 もし10日間のヴィパッサナー・コースを受けたからといって、もう二度と怒りなど起こらない、と思ったらそれは幻想です。そこから本当のスタートが始まるのです。心をダンマの方向へ少しずつ向ける努力を重ねると、変化が起こります。
 

刑務所でのダンマ


 ダンマは、社会のすべての人にとって有益なものです。刑務所で服役中の人びとに対して、ヴィパッサナーのコースが行われる例があります。国の法律を犯して投獄されて、家族や自由を奪われて苦しんでいますが、そこにさらに「自分を訴えた証人を出所後に殺してやろう」などの考えが湧いて、心の中で怒りや復讐心という煩悩を生じさせ、いっそう苦しむことになります。
 

 しかしヴィパッサナーを実践すると「こんな考えをしていると、ますます自分が苦しくなるだけだ。国の裁判所からの罰だけでなく、自然の法則によっても今、自分で自分を罰している」と気づきます。そして変化が訪れるのです。

 かつてインドには「ダンマの王」がいて、刑務所にいる人びとにもヴィパッサナーを教え、よりよい生き方へ導きました。今でも刑務所で実施されるヴィパッサナーコースを受けた受刑者たちは、「もし刑務所に来なかったら、この教えに触れる機会はなかったかもしれない」と感謝します。外の世界にいる人びとも、実は煩悩の奴隷になっている点では、ある意味“自分自身の刑務所”に入っているともいえます。望みどおりにいかないとき、すぐに嫌悪や不安を起こして自分を苦しめているのです。
 

 こうした状況を生んでいる原因は自分自身であり、ほかの神仏に助けを求めてもどうにもなりません。もし特定の神や女神、ブラフマー、聖者を信仰しているなら、その崇高な特質を自らの内に呼び起こす努力をすることこそが真の信仰でしょう。


 道徳律を守り、正しい行いをすることがダンマの生き方です。暴力や殺生、盗み、不適切な性行為、人を欺く嘘、悪口、アルコールや薬物乱用などを慎む―このことを理解して、実践するのは自分の幸せのためでもあります。身体や言葉で暴力的な行動を取るとき、心の中では必ず煩悩が起こっています。

 私たちは社会的な存在です。ダンマに即した生き方をすれば、周囲にも平和が広がります。体を鍛えるのに運動や呼吸法(プラーナーヤーマ)が必要なように、心を鍛えるにはヴィパッサナーという具体的なトレーニングが大いに役立ちます。ヴィパッサナーは実践によって確かな結果が得られる方法であり、生活をより幸せで安らかなものへ導きます。
 

 どうか今日ここに集まった皆さん一人ひとりが、ダンマを深く理解し、実践に努めてください。

 どうか皆さまが平和でありますように

 すべての存在が安らかで幸福でありますように

​​

bottom of page