top of page
banner.png

वयधम्मा सङ्खारा, अप्पमादेन सम्पादेथ
すべての現象は無常です たゆまず歩み 成就しなさい

ブッダの道は現実を体験すること

Remembering S N Goenka
Discourses by S N Goenka
Life of  S N Goenka-2

(以下は1989年9月、タイ・バンコクで行われたS.N.ゴエンカ氏の講話を要約したものです)

 

 尊敬するサンガのみなさま、友人のみなさま、そしてブッダを敬愛するみなさま

 本日みなさまは、ヴィパッサナーとは何か、日々の生活の中でどのように役立つのか、そして苦しみから、すなわち生と死の苦しみから抜け出す手助けとなるのはどうしたらよいか理解するためにお集まりくださいました。誰もが苦しみから抜け出し、平和で調和のある人生を送りたいと願っています。しかし、その方法を私たちは知りません。ゴータマ・シッダッタは悟りによって真理を知りました。苦しみとはどこにあるのか、それはどのように始まるのか、そしてどのようにすれば根本から取り除くことができるのかを、悟りによって理解されたのです。
 

 当時も現在と同じように、さまざまな瞑想法が行われていました。修行中のゴータマ・シッダッタは、それらをすべて実践されました。しかし、苦しみから完全に自由になれないとわかり、満足されませんでした。そこで、ご自身で探究を始められました。そして、自らの直接の体験を通してヴィパッサナーという実践法を発見されました。この実践によって、ご自身の苦しみを根本から取り除き、完全な悟りに到達されたのです。

 世の中には、一時的に苦しみを和らげる方法は数多くあります。苦しみを感じると、人は意識を別のものへ向けようとします。そうすると苦しみから抜け出したように感じます。しかし、完全に解放されたわけではありません。

 人生で思いどおりにならないことが起こると、心は動揺します。その苦しみに耐えられず、そこから逃げ出したくなります。映画館や劇場へ行く人もいるでしょう。ほかの感覚的な娯楽に没頭する人もいます。酒を飲みに出かける人もいます。しかし、それらはすべて苦しみから逃げているにすぎません。逃げても問題は解決しません。それどころか、苦しみはいっそう増大していきます。

 ブッダが悟りによって見いだされたのは、現実に向き合わなければならないということでした。問題から逃げるのではなく、問題そのものに向き合わなければならないのです。ブッダは、当時行われていたあらゆる瞑想法を調べた結果、それらは苦しみから心を別の対象へ向けるだけのものだと理解されました。そのような実践では、実際に別の対象へ向けられるのは心のごく一部にすぎません。心の深いところでは反応が続き、欲しがる反応、嫌がる反応、あるいは物事を正しく理解できない反応(サンカーラ)が絶えず生じ続けています。そして、そのために人は心の深いところで苦しみ続けているのです。瞑想の対象は、想像によって作り出したものではなく、現実そのものでなければなりません。ありのままの現実を対象にしなければならないのです。その瞬間に現れている現実、自分の身体という枠組みの中で実際に体験している現実を、そのまま観察していく必要があります。

 ヴィパッサナーの実践では、自分自身の内側にある現実を探究します。それは身体の働きと心の働きです。私たちは、この二つが結び付いたものを「私」「自分のもの」と呼び続けています。そして、この身体と心の働きに対して計り知れないほどの執着を生み出し、その結果として苦しむことになるのです。ブッダの示された道を歩むためには、心と身体の真実を観察しなければなりません。その基本的な性質は、実践する人自身が直接体験しなければならないのです。そこから智慧が生まれます。

 智慧には三つの種類があります。一つ目は、人から聞いて得る智慧です。二つ目は、自分の頭で考え、分析して得る智慧です。三つ目は、自分自身の直接の体験から育まれる智慧です。ブッダ以前にも、またブッダと同じ時代にも、道徳を教え、心を落ち着かせる方法を教え、さらに智慧について語る指導者は数多くいました。しかし、それは人から聞いた智慧か、頭で考えた智慧にとどまっていました。自らの体験によって得られた智慧ではありませんでした。ブッダは、人がどれほど知的な議論を重ねても、あるいは信仰に励んでも、自ら真実を体験し、その体験から智慧を育てない限り、苦しみから自由になることはできないと見いだされました。ヴィパッサナーとは、自分自身の体験によって得られる智慧なのです。講話を聞くこともできます。経典を読むこともできます。あるいは頭で考え、「なるほど、ブッダの教えはすばらしい。この智慧は実にすばらしい」と納得することもできるでしょう。しかし、それはまだ智慧を直接体験したことにはなりません。

 心と身体のすべての領域(六つの感覚器官と、それぞれが受け取る対象)には、共通した三つの基本的な性質があります。それは、絶えず変化し続けること(アニッチャ=無常)、思いどおりにならず苦しみをもたらすこと(ドゥッカ=苦)、そして固定した「自分」という実体がないこと(アナッター=無我)です。ブッダは、この現実を自分自身の内側で体験することを望まれました。そして、身体という枠組みの中で真理を探究するために、二つの領域を定められました。一つは身体の働きです。すなわち、この肉体そのものです。もう一つは心の働きであり、そこには四つの側面があります。一つ目は、何かを知る働き。二つ目は、それが何であるかを認識する働き。三つ目は、身体に生じる感覚を感じ取る働き。四つ目は、その感覚に反応する働きです。この二つの領域を探究するために、ブッダは身体の観察(カーヤーヌパッサナー)と心の観察(チッターヌパッサナー)を教えられました。

 しかし、身体を感じ取ることなく、どうして直接の体験によって身体を観察できるでしょうか。身体の中で何かが起こり、それを実際に感じ取り、はっきりと気付いて初めて、「私は身体の観察を実践した」と言えるのです。そのためには、身体に生じている感覚を感じなければなりません。これが感覚の観察(ヴェーダナーヌパッサナー)です。

 心の観察についても同じです。心の中で何かが起こらなければ、それを直接体験することはできません。心の中に現れるものは、すべて心の対象(ダンマ)です。したがって、心を観察するためには、心の対象の観察(ダンマーヌパッサナー)が欠かせません。

 ブッダは、このように実践を整理されました。身体の観察と感覚の観察は、身体という領域に関わります。一方、心の観察と心の対象の観察は、心という領域に関わります。みなさん自身の直接の体験を通して、心と身体がどのようにつながっているのかを確かめてください。実際に体験することなく、「心や身体を理解した」と思い込むのは思い違いです。心と身体の本当の姿を理解できるのは、直接体験したときだけです。ここからヴィパッサナーは私たちの役に立ち始めます。

 では、ヴィパッサナーをどのように実践するのかを簡単に説明しましょう。まず最初に行うのは、アーナーパーナ、すなわち呼吸への気付きです。自然な呼吸をそのまま観察します。プラーナーヤーマのように呼吸を訓練したり、意図的に調整したりするのではありません。観察する場所は鼻の入り口付近です。静かで落ち着いた環境の中で、途切れることなく実践を続けると、二、三日ほどで、身体のこの部分に微細な現実が現れ始めます。いくつかの感覚、すなわち自然でごく普通の身体の感覚です。温かさや冷たさを感じることもあります。ずきずきする感覚や脈打つ感覚を感じることもあります。あるいは、それ以外のさまざまな感覚が現れることもあります。四日目、五日目になるころには、そのような感覚が頭の先から足先まで、身体全体で感じられるようになります。そのとき人はそれらの感覚を感じますが、求められるのは、それらに反応しないことです。ただ観察します。感覚を「自分のもの」と考えず、客観的に観察するのです。

 ブッダが教えられたとおりに実践を続けると、七日目、八日目には、さらに微細な現実へと近づいていきます。すると、ダンマ(自然の法則)が実践を支え始めます。最初はとても固まりに見えていた身体全体を、感覚を通して観察していきます。観察に観察を重ねるうちに、やがて身体全体が、極めて小さな粒子にほかならないことを体験する段階に至ります。身体のどこもかしこも、極めて小さな粒子(カラーパ)以外の何ものでもないのです。そして、その最も小さな粒子でさえ固定したものではありません。それらはただの振動であり、波のように揺れ動いているだけなのです。そのとき、ブッダの次の言葉が、自らの体験によって明らかになります。

 Sabbo pajjalito loko, sabbo loko pakampito.  この宇宙のすべては、燃え続け、絶えず振動しているにほかならない。

 自分自身でこのことを体験すると、身体の観察と感覚の観察は、物質の世界全体が振動にほかならないことを体験する段階へと導いてくれます。すると、心の観察も、心の対象の観察も、とても容易になります。

 ブッダの教えとは、粗く表面的に見える真理から、最も微細で究極の真理へと進む道です。すなわち、オーラーリカ(粗大なもの)からスクマ(微細なもの)へと進む道です。表面的な真理は、常に心に思い込みと混乱を生み出します。しかし、その表面的な現実を細かく分け、深く探究していくと、ついには究極の現実へと至ります。物質の本当の姿が振動であることを体験すると、それと同時に、心の現実も体験し始めます。すなわち、何かを知る働き(ヴィンニャーナ)、認識する働き(サンニャー)、感覚を感じる働き(ヴェーダナー)、そして反応する働き(サンカーラ)です。ヴィパッサナーによってこれらを正しく体験すると、それぞれがどのように働いているかがはっきりとわかるようになります。

 たとえば、身体全体がただの振動であることを体験する段階に達したとしましょう。そのとき、耳に音が触れると、その音もまた振動にほかならないことに気付きます。まず心の最初の働き、すなわち何かを知る働きが役目を果たします。耳の意識が、耳という感覚の入り口で何かが起こったことを認めるのです。鐘を一か所たたくと、その振動が鐘全体へ広がっていくように、感覚器官のどこかで接触が起こると、その振動は身体全体へ広がります。この段階では、それはまだ快いものでも不快なものでもない、ただの中立的な振動です。

 次に、認識する働きがその音を認識し、評価します。「これは言葉だ。」「どんな言葉だろう。」「褒め言葉だ。」「すばらしい。とても良い。」すると、そこに生じる感覚、すなわち振動は、とても快いものになります。同じように、その言葉が悪口であれば、その振動はとても不快なものになります。振動は、心の認識する働きが下した評価に応じて変化するのです。その次に、心の三番目の働きが、その感覚を、快い、あるいは不快なものとして感じ始めます。

 そして最後に、心の四番目の働きが動き始めます。これが反応であり、その役目は反応することです。快い感覚が生じれば、欲しがる反応を起こします。不快な感覚が生じれば、嫌がる反応を起こします。快い感覚に対しては、「これが好きだ。」「とても良い。」「もっと欲しい。もっと、もっと。」反対に、不快な感覚に対しては、「これは嫌だ。」「なくなってほしい。」欲しがる反応や嫌がる反応を生み出しているのが、心の四番目の働き、すなわち反応する働きなのです。

 この一連の流れが、六つの感覚器官のどこかで絶えず続いていることを理解してください。毎瞬間、感覚器官のどこかで何かが起こっています。毎瞬間、それぞれの知る働きが対象を受け取り、認識する働きがそれを認識し、感覚を感じる働きが感じ、反応する働きが、欲しがるか嫌がるかの反応を起こします。これが、私たちの人生で絶え間なく繰り返されているのです。

 表面的には、自分は外からの刺激に対して、欲しがる反応や嫌がる反応を起こしているように思えます。しかし、実際はそうではありません。ブッダが見いだされたのは、私たちは自分の感覚に対して反応している、という事実でした。この発見こそが、ブッダの悟りだったのです。ブッダは仰いました。

 Salāyatana-paccayā phasso;  phassa-paccayā vedanā;  vedanā-paccayā taṇhā.  

 六つの感覚器官を縁として、接触が生じる。  接触を縁として、感覚が生じる。  感覚を縁として、渇愛が生じる。

 このことが、ブッダには極めて明確になりました。六つの感覚器官が外の対象と接触します。その接触によって、身体に感覚が生じ、それは多くの場合、快か不快です。そして、その快い感覚や不快な感覚が生じたあとに初めて、欲しがる反応や嫌がる反応が始まります。感覚や不快な感覚が生じる前ではありません。この理解が可能だったのは、ブッダが心の奥深くまで進み、自ら体験されたからです。そして、問題の根本にまで到達し、苦しみの原因を根本から取り除く方法を発見されました。

 心の知的な段階で取り組むと、私たちは欲しがる反応や嫌がる反応を抑えようとします。しかし、心の深いところでは、それらの反応は依然として続いています。私たちは絶えず欲しがる反応や嫌がる反応の中を転がり続けており、抑え込むことによって苦しみから抜け出すことはできません。

 ブッダは、その道を発見されました。それは、どのような理由であれ、感覚を体験したときには、ただそれを観察するということです。

 Samudaya dhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati;  vaya dhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati;  samudaya-vaya-dhammānupassī vā kāyasmiṃ viharati.  

 身体において、生起する現象を観察します。あるいは、身体において、滅していく現象を観察します。あるいは、身体において、生起と滅去する現象を観察します。

 あらゆる感覚は生じ、そして消えていきます。永遠に続くものは何一つありません。ヴィパッサナーを実践すると、このことを体験し始めます。どれほど不快な感覚であっても、ごらんなさい、それは消えていくためだけに生じるのです。どれほど快い感覚であっても、それはただの振動にすぎず、生じては消えていきます。快い感覚も、不快な感覚も、そのどちらでもない感覚も、無常という性質は変わりません。みなさんは今、アニッチャ(無常)という現実を体験しているのです。それは、ブッダが仰ったから信じるのではありません。経典や伝統がそう伝えているから信じるのでもありません。頭でそう考えるから信じるのでもありません。自分自身が直接体験するからこそ、無常という真理を受け入れるのです。このようにして、人から聞いて得た智慧や、頭で考えて得た理解が、自分自身の体験による智慧へと変わっていきます。

 この無常の体験だけが、心の反応の習慣を変えていきます。身体に生じる感覚を感じ、すべては無常であると理解すると、欲しがる反応も嫌がる反応も起こさなくなります。心は落ち着きを保ちます。この実践を繰り返すことによって、心の最も深いところにある反応の習慣が変わっていきます。新たに欲しがる反応や嫌がる反応の条件づけをつくらなくなると、古い条件づけが表面に現れ、そして消えていきます。現実をありのまま観察することによって、私たちは欲しがる反応や嫌がる反応によるあらゆる条件づけから自由になっていくのです。

 西洋の心理学では、「顕在意識(表面意識)」という言葉が使われます。ブッダは、この部分をパリッタ・チッタ(ごく小さな心の領域)と呼ばれました。そして、このパリッタ・チッタと、より深い領域にある心の残りの部分との間には、大きな隔たりがあります。顕在意識は、無意識あるいは半無意識の領域で何が起こっているのかを知りません。ヴィパッサナーは、この隔たりを打ち破り、顕在意識の段階から、心の最も深い段階へと導きます。この実践は、心の最も深いところに横たわるアヌサヤ・キレーサ(潜在する心の汚れ)を明るみに出すのです。

 いわゆる「無意識の心」は、無意識ではありません。それは、身体に生じる感覚に常に気付いており、絶えずそれらに反応しています。不快であれば嫌がる反応を起こし、快ければ欲しがる反応を起こします。これこそが、心の深いところにある、いわゆる無意識の習慣であり、行動の型なのです。

 いわゆる無意識の心がどのように欲しがる反応や嫌がる反応を起こしているのか、一つ例を挙げてみましょう。みなさんがぐっすり眠っているとします。そこへ蚊が刺し、不快な感覚が生じます。意識している心は、何が起こったのかを知りません。しかし無意識は、不快な感覚があることをすぐに知り、嫌がる反応を起こします。蚊を追い払ったり、たたいてしまったりします。それでも不快な感覚が残っているので、身体をかきます。意識している心は深く眠ったままなのにです。目が覚めてから誰かに、「昨夜は何か所蚊に刺されましたか」と聞かれても、答えられないでしょう。意識している心は気付いていませんでしたが、無意識は知っていて、反応していたのです。

 もう一つ例を挙げましょう。三十分ほど座っていると、身体のどこかに圧迫感が生じます。すると無意識の心が反応します。「圧迫されている。」「これは嫌だ。」そして姿勢を変えます。無意識の心は、絶えず身体の感覚と接触しています。少し身体を動かし、しばらくするとまた動かします。十五分から二十分ほど座っている人を観察してみてください。その人が絶えずもぞもぞと、少しこちらへ、少しあちらへと動いていることに気付くでしょう。もちろん、本人は自分が何をしているのかを意識してはいません。身体の感覚に気付いていないからです。自分がその感覚に嫌がる反応を起こしていることにも気付いていません。この隔たりこそが、無知なのです。

 ヴィパッサナーは、この無知を打ち破ります。すると、感覚がどのように生じ、それがどのように欲しがる反応や嫌がる反応を生み出すのかを理解し始めます。快い感覚があれば、欲しがる反応が起こります。不快な感覚があれば、嫌がる反応が起こります。そして、欲しがる反応や嫌がる反応が起こるところには、必ず苦しみがあります。

 もし、この行動パターンを断ち切らなければ、欲しがる反応と嫌がる反応は絶え間なく続いていきます。表面的には、「私はブッダの教えを実践しています」と言うかもしれません。しかし実際には、ブッダが教えられたことを実践してはいないのです。それは、ブッダと同じ時代の他の師たちが教えたことを実践しているにすぎません。ブッダが教えられたのは、苦しみが生じる最も深いところまで到達する方法でした。苦しみは、欲しがる反応や嫌がる反応によって生じます。ですから、欲しがる反応と嫌がる反応の源を見つけ出し、その段階で行動パターンそのものを変えなければなりません。

 ブッダは、苦しみと、苦しみの生起を観察するよう教えられました。この二つを観察しなければ、苦しみが終わることを知ることは決してできません。苦しみは感覚とともに生じます。感覚に反応すれば、苦しみが生じます。反応しなければ、その感覚によって苦しむことはありません。どれほど不快な感覚であっても、嫌がる反応を起こさなければ、落ち着いた心で微笑むことができます。そして、これもまたアニッチャ(無常)にほかならないと理解します。こうして、心の反応の習慣そのものが、最も深いところで変わっていくのです。

 ヴィパッサナーを実践することによって、人々は怒り、情欲、恐れ、自我など、あらゆる心の汚れから抜け出し始めます。数か月、あるいは数年もすれば、その人の変化は誰の目にも明らかになります。これがヴィパッサナーの恩恵です。それも、今ここで、この人生において得られる恩恵なのです。

 ここはダンマの国です。ブッダの教えが伝えられてきた国であり、これほど大きなサンガが存在する国です。どうか、ブッダの教えを最も深いところで活用してください。教えを表面的な段階にとどめてはなりません。欲しがる反応が生まれる、その最も深いところまで進んでください。

 Vedanā paccayā taṇhā;  vedanā-nirodhā taṇhā-nirodho;  taṇhā-nirodhā dukkha-nirodho.  感覚を縁として、渇愛が生じます。  感覚が滅すれば、渇愛も滅します。  渇愛が滅すれば、苦しみも滅します。

 人はニッバーナという真理を体験するとき、すなわち感覚世界全体を超えた境地を体験するとき、六つの感覚器官はすべて働きを止めます。外の対象との接触はあり得ず、したがって感覚も滅します。この段階において、あらゆる苦しみからの解放があります。

 しかし、まず身体の感覚を感じ取れる段階に達しなければなりません。そうして初めて、心の反応の習慣を変えることができるのです。この技法を、この実践を、心の最も深いところで行ってください。心の表面の段階で取り組んでいるなら、変わるのは表面意識、すなわち知的理解だけです。それでは原因の根、心の最も無意識の段階には至りません。欲しがる反応や嫌がる反応という深く根付いた心の汚れ、アヌサヤ・キレーサを取り除くこともできません。それらは、いつ噴火するかわからない眠っている火山のようなものです。そのままでは、生から死へと転がり続け、苦しみから抜け出すことはできません。

 どうか、このすばらしい技法を活用してください。苦しみから抜け出してください。束縛から抜け出してください。そして、真の安らぎ、真の調和、真の幸福を味わってください。

 皆さまが、真の安らぎ、真の調和、真の幸福を享受されますように。

bottom of page