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瞑想におけるサーミサとニラーミサ

(以下の記事は、2007年9月26日発行のVRIニューズレター第17巻第10号に掲載されたもので、もともとは1995年4月のヒンディー語版『ヴィパッサナー・パトリカ』に掲載された記事の翻訳です。)


 サーミサ(Sāmisa)というパーリー語は、本来、生肉や肉、美味なる食べ物を意味します。しかし、比喩的には、煩悩によって汚染された心の状態、つまり、この世界や別の世界に再生をもたらす心の状態を指します。具体的には、身体感覚(vedanā)に反応して、好ましい感覚に対しては*ラ―ガ(rāga, 欲あるいは執着)を、好ましくない感覚に対してはドーサ(dosa, 嫌悪)を、中立的な感覚に対してはモーハ(moha, 無知)*を起こす心のことです。これに対して、身体感覚を無常(anicca)、苦(dukkha)、無我(anatta)と理解し、そこに執着や反応を起こさない「離欲」の状態にある心を、ニラーミサ(nirāmisa)と言います。
 

 普通の人は、日常生活で心が常にサーミサ(煩悩に汚染された状態)のままですが、瞑想者は身体感覚の無常性(移ろいゆく性質)を正しく理解しようと努めることで、心をニラーミサ(清浄で汚れのない状態)に保つ能力を養います。

 サーミサとニラーミサという用語は、しばしばブッダによって比喩的・対照的に用いられており、他のさまざまな用語と併せて登場します。以下は、瞑想の実践についてブッダが用いた比喩的解説の例です。なお、現代一般に「ベジタリアン(菜食)=ニラーミサ」「非菜食=サーミサ」と解釈される場合がありますが、ここではそのような意味で用いられているわけではありません。

三種類の感覚とサーミサ・ニラーミサ
マハーサティパッターナ  スッタ(Mahāsatipatthāna Sutta)のヴェダナー(感覚)を観察する章(ヴェダナーヌパッサナー, Vedanānupassanā)では、三種類の感覚――すなわちスッカ(sukha, 快)・ドゥッカ(dukkha, 不快)・アドゥッカマスッカ(adukkhamasukha, 中立)――を、瞑想者は無常(anicca)として完全に理解するよう教えられています。この文脈の中で、サーミサ(煩悩に汚染された)とニラーミサ(汚染されていない)という用語が登場します。

また、『アンギュッタラ・ニカーヤ(Anguttara Nikāya)』1には、*スッカー・ヴェダナー(sukhā vedanā, 快い感覚)*がサーミサ(煩悩に汚染された)か、あるいはニラーミサ(汚染されていない)かについて言及があります。そして後者のニラーミサが前者よりも優れていると強調されています。

Dhamma(ダンマ)とāmisa(アーミサ)
他の箇所では、サーミサ(āmisa とも綴られる)はダンマ(Dhamma)の対極として用いられます。たとえば、dhammadāna(ダンマの施し)がāmisa-dāna(物質的な布施)よりも勝れていると説かれます。同様に、dhammayoga(ダンマに結ばれること)、dhammacāga(ダンマの布施)、dhammabhoga(ダンマの富)といった語も、それぞれāmisaを伴う用語よりも勝れていると示されています。2

さらに『パティサンビダー・マッガ(Patisambhidāmagga)』3では、āmisa と nirāmisa が、uppāda(生起)、pavatta(行い)、nimitta(表象・イメージ)、āyuhana(命の終わりを迎えること)、patisandhi(受胎・結合)、gati(行くこと・行路)、nibbatti(再生)、upapatti(生まれ変わり)、jāti(生)、jarā(老い)、byādhi(病)、maranam(死)、soka(悲嘆)、parideva(嘆き)、upāyāsa(絶望)など多くの語に関連づけて論じられています。文脈により解釈は異なりますが、いずれにおいてもニラーミサがアーミサ(サーミサ)に対比され、かつそれよりも優れたものとして位置づけられています。
 

ヴェダナーに対する凡夫の反応
六つの感覚器官(六処)において何らかの感覚(vedanā)が生じると、凡夫は自然にそれに反応し始めます。*スッカー・ヴェダナー(快)*に対しては欲(ラ―ガ)、*ドゥッカー・ヴェダナー(不快)*に対しては嫌悪(ドーサ)、*アドゥッカマスッカー・ヴェダナー(中立)に対しては無知(モーハ)という反応を起こします。感覚が無常であることを知らないがために、人はそこに執着し続け、輪廻の流れにとどまります。その結果、あらゆるカーマスッカ(kāmasukha, 世俗的な快楽)*はサーミサであるとされ、同様に再生の輪(bhavacakka)を回し続けるあらゆるヴェダナーもサーミサ(煩悩に汚染されたもの)といわれるのです。4

 

『ニラーミサ・スッタ(Nirāmisa Sutta)』における用法
『サンユッタ・ニカーヤ(Saṃyutta Nikāya)』所収のニラーミサ・スッタ(Nirāmisa Sutta)5では、サーミサとニラーミサが、pīti(喜び)、sukha(楽・喜悦)、upekkhā(平静・捨)、vimokkha(解脱)といった用語と関連づけられ、さまざまな段階のjhāna(禅定)の中でどのように経験されるかが示されています。

ここでは、凡夫は五つの感覚(kāmaguna)を通してのみpīti(喜び)やsukha(喜悦)、upekkhā(平静)を感じることができるとされ、それらは常にサーミサ(煩悩に汚染された)であって、この世において苦を生み出すものであり、解脱には導かないと説かれます。
 

 これに対して、瞑想者が最初の四禅(jhāna)を得るにつれて経験するpīti(喜び)・sukha(喜悦)・upekkhā(平静)は、感覚的快楽や心の苦痛・喜びから徐々に離れたものなので、ニラーミサ(汚染されていない)と呼ばれます。つまり、ニラーミサ・ピーティ(nirāmisa pīti)・ニラーミサ・スッカ(nirāmisa sukha)・*ニラーミサ・ウペッカー(nirāmisa upekkhā)*などと称され、凡夫が味わうものよりはるかに高次なものとして位置づけられています。6


四禅から八禅へ、そして最終解脱へ
 禅定(jhāna)を修めることによって、瞑想者は第一禅から第四禅を体得し、kāmaloka(欲界)を脱することができます。しかし、この段階ではまだ* rūpaloka*(色界)への執着が残っているとされます。最初の四禅による解脱(vimokkha)は、第五禅から第八禅に達することで得られる解脱に比べるとサーミサ・ヴィモッカ(sāmisa-vimokkha)であるとされます。第五禅以降の各段階(第八禅に至るまで)のサマーディ(samādhi)は、それ以前の四禅よりも微細かつ優れた境地であり、それに伴う解脱(vimokkha)はニラーミサ・ヴィモッカ(nirāmisa-vimokkha)と呼ばれます。

 

 しかし、第八禅の段階にあっても、まだarūpaloka(無色界)への執着が残り、完全な解脱ではありません。ブッダは、解脱者が経験するpīti(喜び)、sukha(喜悦)、upekkhā(平静)、vimokkha(解脱)は、いずれの禅定におけるそれとも比較にならないほど純粋であり、煩悩が尽きた究極の境地であると説かれています。これが「nirāmisatara」と呼ばれ、最も純粋な状態であり、ここではあらゆるāsavā(漏・煩悩の滓)が滅し、貪・瞋・痴(欲・怒り・迷い)のすべてが断たれ、瞑想者はヴィムッティ(vimutti、解脱)の中に確立されます。

“Yam kho, bhikkhave, khīnāsavassa bhikkhuno rāgā cittam vimuttam paccavekkhato… uppajjati pīti... sukham... upekkhā... vimokkho… Ayam vuccati nirāmisā nirāmisataro vimokkho.”7
 

サント(真の平安)に至る比丘
そしてこの究極の心の状態に達した瞑想者について、ブッダは次のように述べています。

“Santakāyo santavāco, santavā susamāhito;
Vantalokāmiso bhikkhu, upasanto’ti vuccati.”8

「身体は静まり、言葉も静まり、心は静まってよく安定している。
世俗的な欲望を捨て去った比丘は、真に沈静した者と呼ばれる。」

注釈
『アンギュッタラ・ニカーヤ(Anguttara Nikāya)』1.2.65-77, Sukhavagga
同書 2.8.37, Dānavagga
『パティサンビダー・マッガ(Patisambhidāmagga)』1.213
同書 2.4.279
出典箇所同上(Samyutta Nikāya 2.4.279)
併せて『マハーサティパッターナ・スッタ』、前掲書、また『パニャッタヤ・スッタ(Pañcattaya Sutta)』『マッジマ・ニカーヤ(Majjhima Nikāya)』『アーナーパーナ・スッタ(Ānāpāna Sutta)』3.21など参照
『サンユッタ・ニカーヤ(Saṃyutta Nikāya)』2.4.279
『ダンマパダ(Dhammapada)』378

 


以上が、サーミサ(Sāmisa)とニラーミサ(Nirāmisa)に関する解説です。サーミサとは感覚に執着して煩悩を増大させる状態であり、ニラーミサとは無常・苦・無我の理解を深め、感覚に執着しないことで心を清浄に保つ状態を指します。これらを理解し、実践することによって、瞑想者はより高次の解脱へと至り、究極的には煩悩を根絶する境地に到達するのです。

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