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ダンマに生きる理由

​(1998年、マハラシュトラ州ナシックのラマバイ・アンベードカル女子高等学校で行われた、主任教師S.N.ゴエンカ氏による3日間の講話シリーズの第2講話の一部。第1講話の前半と後半は、2015年12月25日と2016年3月23日のニュースレターに掲載されました。この講話は、2016年5月21日のVRIニュースレターVol. 26, No.5に掲載されました。)

ナシックの聖地に住むダンマを愛する皆さま

 こんにちは
 昨日のダンマ集会では、ダンマの本質を理解しようとしました。ダンマについて、混乱した迷宮に迷い込まないようにしましょう。ダンマの純粋な本質と、それに混じる外側の層、すなわち人々が本当のダンマと混同する外層を理解することが重要です。この理解があれば、ダンマの本質を理解し、外層を捨て去ることができます。


 ダンマの本質は非常にシンプルで明確です。私たちが混乱するのは無知のためです。浄化された心から発せられる振動がダンマであり、不浄な心から発せられる振動はダンマではありません。心が浄化されると、言葉や行動も自然と純粋になります。逆に、心が嫉妬、憎しみ、情熱、恐怖、傲慢、そして「私」への執着で満たされているとき、それは確かに不浄であり、その言葉や行動も不浄で有害なものになります。そのような人は、自分自身だけでなく他人も傷つけます。


 心を浄化している人は、自然に、努力せずに健全な生活を送り始めます。浄化された心は無限の慈しみ、無限の慈悲、共感の喜び、そして平静に宿ります。そのような人が他人の平和や幸福を乱す言葉を発することができるでしょうか? 他人を傷つけたり害することができるでしょうか? その人の言葉や行動は愛と親切、善意と優しさに満ちています。殺すことも、盗むことも、無理やり他人のものを奪うことも、不適切な性行為をすることもありません。他人を害さず、また自分自身も害さないのです。ダンマの中で生きることで、人は生きる技を学ぶのです。


 内面を見つめ、真実を見る技を学ぶとき、他人を傷つける前にまず自分自身を傷つけていることが明らかになります。怒りや嘘、傷つける行動で他人を害することは、自分の中にまず汚れが生じなければできないことです。そして汚れが生じれば、動揺も生じるのです。それは避けられません。これが自然の法則です。


 古代インドの言葉では、これをダンマと呼びました。内面を観察し始めると、この自然の法則、すなわちダンマが体験レベルで現れ始めます。これは誰に対しても区別なく、すべての場所、すべての時代に適用されます。もし自然の法則が破られるなら、即座に罰が下されます。反対に、普遍的な自然の法則に従って生きれば、平和と幸福が必然的にもたらされます。幸せな来世だけを期待するのではなく、ここで今起こっていることに焦点を当てて、努力することが大切です。なぜなら、自分を浄化するために努力していれば、死後にも何が起こっても良い結果がもたらされるからです。


 純粋なダンマの道を一歩踏み出すごとに、私たちは平和と喜びを得ます。内面に平和と喜びがないのにも拘らず、自分がダンマの生き方をしてると考え続けるなら、それは自分自身を欺いているに過ぎません。いくつかの儀式をこなし、特定の祭りに参加し、ある宗教哲学を信じることで、自分が宗教的だと思い込むのは深い自己欺瞞です。心を浄化する努力を全くせずに、自分が非常に宗教的だと感じるかもしれません。


 心から否定的な表層を取り除くのは容易ですが、深層からは汚れが続々と湧き上がり、否定的な感情が増え続け、習慣の絡み合った網に縛られてしまいます。わずかな喜びも渇望を生じさせ、少しでも不快な感情が生じると嫌悪が生まれます。

 どうすればこのような習慣のパターンから抜け出せるのでしょうか?表面的なレベルで変わるのは簡単です。たくさんの方法があり、少なくとも心の表層が改善されるのは良いことです。しかし、その根っこはどうでしょうか?真の幸福のためには、ダンマの生活を送り、心の根本が変わらなければなりません。このインドの古代の宝であるヴィパッサナーは、その方法を教えてくれます。それは、内面深くに入り込み、心の根本から浄化する方法があるのです。


ありのままにの現実
 

 ありのままの現実を見ることは、実際のインドの古代技術です。深く掘り下げるにつれて、普遍的な法則が非常に明確になり始めます。インドの偉大な聖者たちも、真実を求める科学者のように、内面深く探求し、普遍的な法則である「リット」(rit)の謎を解明しました。彼らは「リシ」(rishis)と呼ばれ、また沈黙(maun)を守るので「ムニ」(muni)とも呼ばれました。彼らは、リットやダンマ、普遍的な自然が何であるかを研究しました。

 私たちはこの深遠な真理を忘れ、ダンマの表面的な層をその本質と見なすようになりました。心の根本に行き、浄化することを忘れてしまいました。しかし、真の聖者たちはこれを忘れませんでした。そして、存在に関する真実を悟りました。インドの偉大な聖者ナーナク(Nanak)はこう言っています。
「その人の命令に従って歩む」


その人の命令に従って歩むとはどういうことでしょうか?神、アッラー、あるいは自然が何を望んでいるのかを理解し、それに従って歩むことです。内を観察することで、その人が本当は何を望んでいるのかが分かり始めます。命令は一つだけです。それは「心を汚さないこと」です。心を汚す者は、罰を免れることはできません。怒り、嫌悪、恐怖、傲慢、渇望を感じるとき、自分がどれだけ動揺するかに気づいてください。


 ナーナクが言及した自然の法則はどこにあるのでしょうか?それはどんな本にも書かれていませんし、そのような講話を聞いても、理解できるものでもありません。この理解は、聖者のように内面深く探求することによってのみ得られます。これらの言葉の意味を外側で探しても意味はありません。意味は内面に刻まれています。

 宇宙の法則を体験的に理解し、この法則に従って生きることがダンマ的になることです。自分自身をどんな名前で呼ぼうと、どんな信念を持とうと、どんな服を着ようと、それは問題ではありません。真のダンマは、いかなる宗派の信念にも縛られず、常に普遍的であり、すべての人に適用され、すべての場所、すべての時代に通用します。重要なのは、自分自身の心の浄化に取り組み始めることです。

 ダンマの生活を始めた人は、その利益をすぐに見ることができます。一般的な信念としては、死後にその利益が現れると言われていますが、死後に戻ってきた人がそうだと言ったことはありません。当然、死後にもダンマはその利益をもたらし続けるでしょうが、その利益はまずここで今、得られなければなりません。未来が良くなる前に、現在が良くなる必要があります。


教え
 

 これが古代インドの教え、ヴィパッサナー(Vipassana)でした。真実を見極める、あるいはリット・ダルシャナ(rit darśana)とも呼ばれるヴィダルシャナ(Vidarśana)です。数千年前のものでありながら、一度失われた後、2600年前に偉大な人物であるブッダによって再発見されました。ブッダはそれを実践して利益を得た後、最大限の慈しみ(Metta)をもって人々に広め始めました。見る限り、どこにでも苦しみがありましたが、この有益な知識を得れば、人々は心を浄化し、痛みや苦しみから抜け出すことができると悟ったのです。


 この国(インド)はヴィパッサナーを歓迎しました。歴史は繰り返され、再びこの国はヴィパッサナーを受け入れています。ヴィパッサナーが中央インドに初めて伝わった際の興味深い話があります。

ブッダの時代、プンナ(Pūrṇa)という名前の成功した商人が、コーサラ王国(Kaushal)に商売のために旅をしました。コーサラの首都サーヴァッティ(Sāvatthī)は当時最も人口が多く繁栄している都市の一つでした。

 プンナのパーラミー(解脱に導く善い性質)が実を結ぶ時が来ました。ブッダの教えを聞いた彼は大いに喜びました。

 「ああ、心を根本から浄化する方法があるのか!これ以上何を求めることがあるだろう!」彼はブッダのもとに行き、ヴィパッサナーを忠実に実践し、ダンマにおいて成長しました。

一度ダンマの甘露を味わい、深い至福を経験すると、それを内に留めておくことはできません。皆がこの平和と至福を経験できますようにという願いが湧いてきます。プンナは合掌してブッダに、この有益な知識を同郷の友人たちに教える許可を求めました。ブッダは微笑みました。プンナを試そうとして、「あなたは友人たちのことをを知っているでしょう?」と言いました。「はい、ブッダよ、よく知っています。」「あなたの友人たちは非常に攻撃的です。新しい知識を紹介して気に入らなければ、あなたを打ち倒し苦しめるでしょう。」「はい、ブッダよ、それをよく知っています。彼らは攻撃的ですが、非常に分別があります。真実を理解すれば、すぐに受け入れるでしょう。ですから、どうか教える許可をください。」

 しかし、ブッダはさらに彼を試すために尋ねました。「あなたが彼らに儀式や儀礼を捨てて、内面を深く見つめ、心を浄化し、汚れを取り除くことを学ぶように言ったら、それを新しく奇妙なものと見なして怒り、あなたを罵倒するかもしれません。その時はどうしますか?」「ブッダよ、その時はこう言います。『あなたたちはなんて良い人たちでしょう。口頭で罵るだけです。他の人なら石で私を打っていたでしょう。』」「では、彼らが石であなたを打ったらどうしますか?」「その時はこう言います。『あなたたちはなんて良い人たちでしょう。石で打つだけです。他の人なら棒で打っていたでしょう。あなたたちは棒で打たないなんてとても親切です。』」「では、棒であなたを打ったら?」「その時はこう言います。『あなたたちはなんて良い人たちでしょう。剣で切り刻むことはしません。他の人なら剣で私を切り刻んでいたでしょう。』」「そして、もし彼らが本当に剣で切り刻もうとしたらどうしますか?」「その時はこう言います。『あなたたちは本当に親切です。私の手足を切り刻むだけです。他の人なら私を殺していたでしょう。少なくとも私を殺していないなんて、あなたたちはとても親切です。』」「では、本当に彼らがあなたを殺そうとしたらどうしますか?」とブッダは最後に尋ねました。「その時はこう言います。『この世界には自殺して罪悪感を生むほどの苦しみがたくさんあります。あなたたちは今、私を殺すことで自殺の恐ろしい運命から救ってくれているのです。あなたたちはとても親切です。』」

 ブッダはプンナが十分にダンマに成長していることを理解し、「行って、ダンマを広めなさい」と言いました。

この出来事はよく記録されています。しかし、プンナがどのような困難に直面したかはわかりません。しかし、人々は彼に従い始めました。霊的修行(タパス)とヴィパッサナー瞑想の聖なる林がこの地域全体に広がりました。人々は宝石を切るように硬い岩を堀り、瞑想のための洞窟に変えました。これもよく記録されています。ヴィパッサナーは急速に広まりました。人々は分別があり、事実が理にかなって説明されれば、受け入れるでしょう。


 約1000年後、中国人の旅行者もこの地域を通り過ぎ、「ここに住む人々は勇敢な戦士であるが、非常に短気である」と述べました。しかし、彼らは賢明であり、真実が適切に説明されれば、心から受け入れるでしょう。常識を美徳とする彼らは、プンナの言葉をよく理解できたのです。


 この地はヴィパッサナーの活気に満ちた音に共鳴し始めました。パイタン(Paithan)からナシク(Nasik) 、さらには現在のムンバイ郊外のナラソパラ(Nalla Sopara)またはスッパラク・パッタナ(Supparak Pattana)まで、この地は急速にタパスの聖地として成長しました。スッパラク・パッタナとは、当時は主要な国際港であるため、そのように呼ばれていました。


ダールチリヤ(Dāruciriya )

 ある瞑想者がこのスッパラク・パッタナ(Supparak Pattana)の地域で深い瞑想を実践していましたが、煩悩を根絶するほどの高みに到達することはできませんでした。彼は北インドに一人のブッダが現れ、内面を深く掘り下げることで全ての精神的な煩悩から解放される方法を見つけたことを耳にしました。そのブッダは今や完全に解放され、生死の輪から自由になっていました。この瞑想者は「これこそが私が家を出て出家した理由ではないか」と思いました。
 

 その老いた瞑想者のダールチリヤは、ブッダに会うためにナラソパラ(Nalla Sopara)からサーヴァッティ(Sāvatthī)まで休まずに歩いて行きました。ブッダから教えを受けた後、彼はアラハン(完全に解放された者)となりました。しかし、彼は中央インドのマハラシュトラ(Maharashtra )に戻ってダンマを教えることができず、サーヴァッティ(Sāvatthi)で息を引き取りました。


バーバリ・ブラフマナ(Bāvari brāhmana)


 コーサラ国の王マハーコーサラの宮廷祭司であったバーバリが老いたとき、彼はパイタンに行き、ダンマの活動に専念しました。何千年もの間、人々は精神的修行、火供養(ヤギャ)、タパス(苦行)のためにゴーダーヴァリー川の岸辺に全国から集まってきました。そして、ここからパイタンにかけての地域はプラティシュターパンの地と呼ばれていました。


 バーバリ・ブラーフマナもここに来て、アグニホトラ・ヤギャ(火への供養)や一部の瞑想に没頭しました。彼は北インドで誰かがヴィパッサナーを再発見したという話を聞いていました。ヴィパッサナーはヴェーダに言及され、高く評価されていましたが、失われていました。バーバリはまた、北インドのこの人物、ブッダが完全に解放されたという話も聞いていました。これは彼にとって大いに刺激となりましたが、100歳の老人としては旅が困難でした。


 バーバリには多くの弟子がいました。彼は16人の主要な弟子をサーヴァッティに送り、自分が聞いたことが正しいかどうかを確かめるように指示しました。ダンマの名の下に多くの偽りがあるので、この人物が真の師なのか、それとも単なる偽物なのかを確かめるようにと言いました。「よく調べて、彼の教えが本当に解放の究極の道であると分かったら、自分たちでその道を歩み始め、私にも教えてください。」これらの16人の弟子はヴィパッサナーを学び、あらゆる方法でそれを検証し、真実で有益であることを確認して帰ってきました。


 これらの歴史的な例は、人々がいかに容易に教えを受け入れたかを示しています。誰もが心を浄化し、良い生活を送りたいと思っています。誰もが不健全な生活を送りたいとは思っていません。アルコール依存症の人は、飲酒が自分にとって有害であり、家族にとっても危険であることをよく知っています。それは彼の収入を破壊し、彼の生活を破壊します。

酒飲みやギャンブラー、その他の不健全な活動に没頭している人は、そのような行為に耽るべきでないことをよく知っています。しかし、やめる時が来ると、それに屈してしまいます。かわいそうな人はどうすることもできません。


 マハーバーラタ、古代のヒンドゥー叙事詩には、ドゥルヨーダナについてのエピソードがあります。なぜ彼の親が彼をドゥルヨーダナ(不健全な者)と名付けたのか、スユヨーダナ(健全な者)と名付けなかったのか、不思議に思うかもしれません。いずれにせよ、ドゥルヨーダナは言いました:


"Jānāmi Dharmaṃ, na ca me pravrttih; 
Jāmāmi adharmaṃ, na ca me nivrttih". 
「ジャーナーミ・ダルマン、ナ・チャ・メー・プラヴルッティヒ;
ジャーナーミ・アダルマン、ナ・チャ・メー・ニヴルッティヒ 」
「私はダンマを知っているが、それに従う気持ちがない。どうしようもない。
ダンマでないことも知っているが、それから離れる気持ちもない。」


 これらはドゥルヨーダナ(Duryodhana)の言葉だけでなく、一般の人々も同じように考えます。人は不健全な言動に耽るべきではないことを知っていても、そうしてしまいます。論理的には健全な行動に専念すべきだと理解していても、そうすることができません。なぜでしょうか?答えは簡単です。心が自分の制御下にないのです。では、どのようにして心を制御するのでしょうか?
(次の記事に続く)
 

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