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真のダンマとは何か? Part 1

(これは、1998年にナーシックのマハーラーシュトラ州ラーマバーイ・アンベードカル女子高等学校で行われた、主任教諭のS. N. ゴエンカ師による3日間の一般講話シリーズの最初の部分です。2015年12月25日発行のVRIニュースレター第25巻第13号に掲載されました)


親愛なるナーシックのダンマの地の皆さま

 このナーシック(Nasik)の地域は、何千年もの間、インドの崇高な精神が宿る中心地でした。ここはマハーラーシュトラ州だけでなく、全インドの人々にとっても精神的誇りの象徴です。古代から、この地には崇高な精神性を求めて、遠近から人々が集まってきました。

約1800年前、ここからゴーダーヴァリー(Godavari) 川の岸辺、そして数百マイル離れたパイタン(Paithan)地域まで、聖人たちがタパス(tapas、瞑想)を実践し、さまざまな深い修行を行った神聖な地域がありました。瞑想者や礼拝(yagya)または火の儀式などを行う人が、誓いの儀式を行い、実践を重ねました。その後、バクティ(信仰)の伝統が大きな波となり押し寄せて、この地を含む全インドで多くの人々を包み込みました。その伝統は今も続いています。

 
 今日、再びヴィパッサナー瞑想の時代が訪れ、ナーシックの人々が喜んで受け入れていることは、高い精神性を示す証です。数日前、ムンバイの近くに、巨大なグローバル・ヴィパッサナー・パゴダの基礎石が据えられました。その際、ある尊敬するゲストが私に尋ねました。「なぜあなたはこの地域を選んだのですか、他のどこでもなく、なぜあなたはここを選ばれたのですか?」と。実際は、私がその場所を選んだのではなく、この祝福された土地が私を選んだのです。 

 ここナーシックの人々は精神性が高く、ダンマの意義を理解しています。本質を理解し、実際に道を歩む準備ができています。単なる会話や知的な議論レベルにとどまらず、実践を通してこそ意味があります。ダンマを実践しなければ、望ましい結果は得られません。ただの机上の空論となる知的議論や推測では意味がなく、ダンマの生命力は失われてしまいます。
これから、3日間にわたり、私たちはダンマとは何か、その教えに従ってどのように生きるべきか、そしてなぜダンマに従って生きるべきなのかを理解して、深く探求していきましょう。

 ダンマとは何でしょうか。過去1500年から2000年の間に、インドでは「ダンマ」という言葉の真の意味が失われました。その意味が失われてしまえば、その教えに従うことはできません。さらに、さまざまな種類の意味や、補足的な意味も付け加えられ、仏教のダンマ、ジャイナ教のダンマ、ヒンドゥー教のダンマ、キリスト教のダンマなど、それぞれが独自のダンマを作り出しました。


 いろんな宗派が、補足的な意味合いをダンマに付け加えましたが、本来、ダンマには補足の意味合いなど必要ではありません。ダンマ自体に元々の意味があるからです。補足的な意味合いがダンマに付け加えられると、いつの間にかそちらの方が優先されて主要となっていき、ダンマ本来の意味は捉えにくくなります。ダンマの理解において、不遇の時代となりました。

古代インドにおいては、ダンマは実践され、生活の中で生かされました。ダーレティーティ ダンマン(dhāretīti dhammam)

 ある瞬間、心の表面に現れるものが、心のダンマと見なされました。心が反映するものは、自身の性質や特性、すなわち「ダンマ」です。ダンマは特定の要素の特性や性質を意味します。当時の言葉では、ダンマはリトゥ「rit」とも呼ばれ、自然の法を意味しました。例えば、火の性質は燃えることであり、火に接触するものを燃やします。氷の性質は冷たいことであり、氷に接触するものを冷やすのです。


自然の法としてのダンマ
 すべての存在が死、病気、老いに直面するのもまた、自然の法です。言い換えれば、自然の法とはダンマなのです。ここで、心の本質を見てみましょう。たとえば、今この瞬間に私の心に何が生じているかを観察します。怒り、敵意、嫉妬、傲慢などです。これらは時折生じる否定的な感情であり、心の性質、つまり心の法則、ダンマと呼ばれています。古代の偉大な研究者の、リシ(聖仙)、賢者、聖者、グル、アラハン、ブッダたちは、ダンマ、つまり心の性質とは何かということを長い時間かけて探求しました。

どんな心の汚濁や否定的な感情も、たとえば怒り、嫉妬、傲慢が生じるとき、心の中で大きな熱と動揺を引き起こします。これが心の性質であり、避けられません。怒りが生じれば、必ず動揺がその結果として続きます。これらの心の汚濁は常に動揺とともに生じます。この現象を「サハジャット(sahajat)」、つまり「一緒に」と言いました。苦しみは、その結果として必ず動揺を伴って生じるのです。

このことをさらに深く理解してみましょう。燃え盛る炭を容器に入れると、その容器はまず自らが焼け、その後に外部の環境を熱するようになります。そこに近づく人は誰でもその熱を感じるでしょう。同様に、氷を容器に入れると、まずその容器を冷やし、次に外部の環境を冷やします。これが変わることのない自然の法です。

 火のように、怒りが生じた人は、まずは自分自身がその怒りの犠牲者となり、その後にその動揺と熱の波動を周囲に広げます。この人と会うすべての人はその動揺を感じるでしょう。これは無知に満ちた心が自らの本性を表現しているのです。燃え盛る炭から距離を置けば、熱は次第に和らぎます。
古代の賢者たちは、嫉妬や怒り、傲慢などの心の汚濁が生じると、それが必然的に自分自身を焼き尽くすことを理解していました。もし心という器に燃える炭を入れると、その結果は熱と動揺になります。それ以外の何ものでもありません。これまで人はこのような時、自然の不変の法則を理解せずに無知のうちに行動していました。なぜなら、もし正しい心を持っていたならば、誰も自分自身に燃えるような動揺を引き起こしたいとは思わないからです。
 

 無知な子供は、火が燃えることを知らずに、燃える炭に手を伸ばしますが、熱さに驚いて手を引っ込めます。好奇心から再び火に手をかざし、燃えると再び手を引っ込めます。これを数回繰り返すうちに、最終的に「これは火であり、燃えるものであり、触れてはならない」と理解します。
子供ですら理解するのです。しかし、私たちはどうでしょうか?自分の中に、ますます燃える炭を詰め込み、自分自身も他人も焼いて苦しみます。これはただの無知です。怒り、嫉妬、嫌悪、傲慢などの心の汚濁が生じると、それは私たちの中で増幅し、その出来事やそれを引き起こした人についての思考で満たされます。そして、私たちは「こういうことが起こり、怒ったのは私のせいではない。私が怒るのは当然のことだ」と自分を正当化します。


 自然にそう感じるのも無理はありません!誰かが、または何かの出来事が、あなたの望むことを妨げたために怒りを抱いたのです。しかし、事実は、あなた自身が自らを燃やしているのです。あなたが内なる熱に気づいかないのは、心は外の出来事にしか目を向けていないからです。


一方、燃える石炭の代わりに冷たい氷を器に入れると、氷の自然の性質によって、冷えて、心地よい冷涼さをもたらします。心を冷やし、冷静にするための特性を持つ心の属性は、慈愛、慈悲、他者の幸福を喜ぶことです。これらの善い習慣は、自分自身だけでなく周りの人々にも冷静で穏やかな平静をもたらす性質を持っています。


 古代インドでは、内なる観察の技法や方法をヴィパッサナーと呼んでいました。外的な現実に気づく必要がある一方で、内面を観察することは心の育成にとって極めて重要とされていました。特定の出来事によって内に生じる反応を観察することは、意識の最も重要な側面の一つです。この真理を真に見極める日が来るとき、それは何の補足もなく、純粋なダンマを理解し始めるときです。


 「心に汚れが生じるたびに、必然的に動揺が生じる」人は、この絶対的な真理を理解し始めます。何度もこの現象を繰り返し観察するうちに、客観的にこの現実を見ることも学びます。最初は外部で起こる出来事を観察し、その出来事を自分の怒り、嫉妬、敵意などの原因と見なします。
道を歩むにつれて、出来事から離れ、怒りが生じるときに内面で何が起こっているかに注意を向けるようになります。そのような状況下で、動揺と不幸の火に焼かれていることに気づき始めます。内面を観察して、ダンマに基づいた現実を理解し続けると、性格と行動が変わり始めます。ダンマについて深く理解していくのです。


 また、心が汚れることは、ダンマではないと学びます。他者の幸福に対する慈悲、愛情、喜びなどの善の心がダンマであると体験的に理解します。このような善い心が生まれてくると、静けさと平和を経験します。

「dhāretīti dhammam」- ダンマは生き、心の中に受け入れられるものです。経験的なレベルでそれを理解することで、その人は本当のダンマを体現します。火の中に入ると必ず焼かれるように、逆に、氷のように冷涼にいると冷静さが保たれることを知っています。この法則は変わりません。これが普遍的な法則です。例外なくすべてに関わるものです。ヒンドゥー教徒、イスラム教、あるいは他のどの宗派や共同体に属する人々にも共通していることです。
 

 この普遍的なダンマを認識する時に、人類は人間の進化において飛躍するでしょう。


 もしもこの普遍的な真理を忘れ、外部の儀式や儀礼を過度に行うなら、自己の進化のプロセスは遅くなります。実際にダンマから遠ざかることになります。


 さまざまな宗派やコミュニティには、それぞれの儀式や儀礼、服装、人生哲学、そして生活を守るための社会的習慣があります。これ自体には問題はありませんが、社会的儀礼や慣習とは、ダンマではありません。儀式や儀礼にすべての時間を費やして、自分が非常にダンマ的だと錯覚するかもしれませんが、内面を深く探ってみると、どれだけダンマから、知恵や知識から遠ざかっているかの現実が見えてくるでしょう。そして、心の汚濁を生み出し、動揺し、自分自身を傷つけ、他人の平和を乱していることに気づくでしょう。
 

 ダンマは、前述の通り、普遍的なものであり、一つの尺度で、その道を進んでいるかどうかを確認できます。それは、心の汚濁が減少しているかどうかを見ることです。これがダンマを測るための唯一のシンプルな尺度です。そして、ダンマの真実かつ普遍的な性質を理解すれば、どのカースト、宗派、または階級に属しているかは関係なくなります。


真の意味での利己主義
 真のダンマは、真の意味で利己的であることを教えてくれます。人はどんな状況でも、どんな時でも自分自身を観察することを学びます。その瞬間、心に何が生じて、どのように影響を与えているかを観察するのです。本当に利己的な人は、自分の最善の幸せがどうあるべきかを理解し、それに応じて行動します。このような「利己主義」は、一般的に理解される利己主義とは異なります。一般的な利己主義では、人は自分の利益を守るために他人を欺いたり嘘をついたりします。その瞬間には利己的に見えますが、実際には欺きや嘘によって自分自身をも傷つけているため、実は自分の利益に反しています。本当に利己的な人は、ダンマを成長させることで自分の最善の幸せに努めます。 

 慈悲、共感、すべての人々への善意が成長しているなら、その人は確かに自分の「利己的」な利益を守っています。しかし、ネガティブな価値が優勢になるなら、その人は自分の利益を害し、ダンマに反しています。

 これを知的に理解するだけでは十分ではありません。だからこそ、この国の霊的に進化した聖者たちは、自分の利益を守り、内なる真実、現実を見るよう他者に訴えました。内面を観察することを学ぶまでは、外界でどんな経験をしても意味がありません。内面を探求し、観察することを学ぶと、本当の宝石を発見し、人生を本来の意味で生きることを学び、意味深く自分自身を豊かにします。平和と喜びの中で生きるとき、その人は人生の技術を学んだと言えるでしょう。


 誰が一体これを望まないでしょうか?心が汚れたような地獄の炎で燃えたいと思う人は誰もいないでしょう。しかし、習慣の力により、不幸にする行為にふけり続けるのです。内面に目を向け始めると、不安と動揺の中で生きることの無意味さに気づき、自分と周りの人を不幸にしていることにも気づきます。

しかし、望ましくないものに対する嫌悪感や望むものに対する渇望で反応し続ける限り、変化は単なる説教では起こりません。習慣は深く根付いており、私たちは欲望の奴隷になっているからです。変化は内から始めなければなりません。そのために何をすべきでしょうか。


 古代のリシ(Rishis)は、リト(rit)つまり自然の法、この宇宙を支配する法則の意味を探求する求道者でした。彼らは知的に、外部を探すのではなく、内面を探し、答えを見つけました。

彼らが見つけた方法の一つは、嫌悪感や怒りの感情が生じたとき、注意を他の何かに移すことでした。水を飲む、1-2-3-4と数えるなどです。注意を移すことは確かに気分を良くするのに役立ちました。また、好きな神や女神、またはグルの名前を唱え始めることも、怒りやネガティブな感情を和らげるのに役立ちました。
しかし、心の汚濁を浄化する最良の方法は、心を汚すと自然が必ず罰を与えるという基本的な法則を理解することでした。そしてその罰は遅れることなく与えられます。逆に、徳のある思考と行為で心を浄化すると、その報酬も遅れることなく与えられます。自然の反応には絶対に遅れがありません。それは自分の思考と行為の反響にすぎません。


 もしも誰かがどの国に住んでいたとしても、その国の法律に従います。法律を破ると、法的な遅れのために罰が遅れることがあります。法的な誤りで罰を免れることさえあります。しかし、自然の法やダンマには例外や遅延は一切ありません。思考と行為の汚れは、自動的かつ即座に動揺と不安を引き起こし、善行や善の思考は必然的に平和と喜びの報酬をもたらします。これについて体験的に理解し始めると、自然と行動が良い方向に変わり始めます。(続く)

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